国際派日本人養成講座 2012/06/17 を転載

ウイグル独立運動と日本

中国は日本とウイグルの連帯を恐れている。

■1.10代の女の子が公衆の面前で処刑された

「10代の女の子が、『私は無実です! 私の言うことを聞いて!』と叫んだんです。それでも構わず、(中国当局は)この子を処刑したんですよ。公衆の面前で。多くの人々がこの光景を見ていました。それでも、国際社会は沈黙したままだった・・・」[1]

「ウイグルの母」と呼ばれるラビア・カーディルさんの言葉だ。ラビアさんは、中国に植民地化されている祖国ウイグルの独立を果たそうと結集している在外ウイグル人の組織「世界ウイグル会議」の総裁だ。

その「ウイグルの母」は、息子や孫を中国の獄中で人質にとられている。それでもラビアさんはくじけない。

2009年のウルムチ事件の後、中国当局は獄中にある私の息子のみならず、孫までもテレビに引っ張り出して、『私の母(祖母)は悪い人だ』と言わせるというようなことをやりました。彼らがどういうことをやるか、はもうわかっています。[1]

■2.「中国政府がウイグル人と日本人が連帯することを恐れている」

ラビアさんは「世界ウイグル会議」の代表者120名余からなる会議を5月14日から17日まで東京で開催するために来日した。

東京開催を許した日本政府に対して、中国政府の反発は激しかった。開会日に北京では日中韓首脳会談が行われていたが、中国側は野田―胡錦濤会談をキャンセルする、という挙に出た。ラビアさんはこう説く。

私たちはこれまで、米国やヨーロッパでも会議を開いてきましたが、今回の日本に対してのような激しい反応はなかった。なぜこうまで反応するのか?
 
それはおそらく、中国政府が、ウイグル人と日本人が連帯することを恐れているせいだと思います。日本のような、力のある、しかも中国に近い国の国民の多くがウイグルの問題に気付き、中国に対し何かを言い出したら困るということなのでしょう。[1]
 
「ですから、私たちは今回の大会を日本で開催したい、と思ったのです。ヨーロッパでもアメリカでもない、アジアの、ここで声を挙げたい、と思ったのですよ」[1]

■3.戦前からあった日本とウイグルの連帯構想

日本とウイグルとの連帯という戦略は、実は戦前の日本ですでに構想されていた。ロシアでの共産革命が起こった後、大正末期(1920年代後半)に、陸軍大学校校長をしていた林銑十郎(せんじゅうろう)は、こう語っている。

共産革命によって帝政ロシアは覆(くつがえ)った。その影響下に、最も隣接したハルハ蒙古(JOG注: 外モンゴル、ソ連の影響下で、1924年、世界で2番目の社会主義国家、モンゴル人民共和国として成立)が独立したが、双方ともに国内整備が完了すれば、思想攻撃は当然四隣に及んでくる。・・・
 
右翼堤防のハルハ蒙古は、もろくも共産陣営に崩れ去ったが、左翼堤防の新疆省方面は、強烈な信仰信条を持つ回教民族だから、容易にその団結は崩れないと思う。・・・
 
回教という特殊な宗教勢力が、中央アジアからトルコに通ずる一線、これは単に新疆だけのものではないところに、なかなか一朝一夕に処断しかねる勢力をなすと思う。[1,p94]

共産勢力がロシアからモンゴルを経由して、中国や日本に及んでくる。右翼(東側)の防波堤は崩れたが、西側のウイグル(新疆)民族は強い信仰力を持つイスラム教徒だから、反宗教の共産主義には屈しない。

そして、その同じイスラム勢力が、中央アジアからトルコまで続いている。この勢力は簡単には押さえつけられない、というのである。この読みの正しさは、戦後、ソ連やアメリカがアフガニスタンで苦杯を喫し、また、今まさに共産中国が手を焼いているウイグル独立運動により実証されている。

■4.満洲、モンゴル、ウイグル、チベット-「防共回廊」構想

林の着想は、後に、満洲、モンゴル、ウイグル、チベットの地域の独立を支援して、反共親日国家群を樹立し、ソ連の南下を防ぎ、中国共産党との連携を遮断し、東アジアの赤化を防ぐという雄大な構想に発展した。これが「防共回廊」構想である。

そして、多くの日本陸軍人や民間人が、この構想の実現のために、これらの地域に入り込み、現地の人々とともに汗や血を流した。

昭和7(1932)年の満洲国の成立は、日本の「アジア侵略」の一環と非難されるが、当時の日本から見れば、ソ連共産主義の防波堤という狙いがあった。「防共回廊」の東北端が満洲国であった。

外モンゴルが共産化され、ソ連の傀儡国家となった以上、陸続きの満洲、朝鮮と赤化されれば、その脅威はたちまち日本に及ぶ。現在の北朝鮮のような国が釜山まで支配していたらと想像すれば、戦前の日本人の危機感は容易に理解できる。

「防共回廊」各地域の独立活動、日本の支援活動の詳細は本書[2]に譲る事として、ここではウイグルを中心に、戦前の独立運動を追ってみたい。

■5.支那の過酷なウイグル支配

ウイグルの地は18世紀に清に征服され、「新しい領土」を意味する新疆(しんきょう)と呼ばれた。また中央アジアのトルコ系民族が住む地域をトルキスタンと称し、その東方という意味で「東トルキスタン」とも呼ばれる。西トルキスタンには、トルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギス、カザフスタン、タジキスタンが含まれる。

戦前に日本と連帯して、ウイグルの独立を果たそうとしたムハンマド・イミン・ボグラは、当時の状況を次のように語っている。

東トルキスタンの回教民は、久しきにわたり支那の虐政と専制により常時束縛を蒙(こうむ)り来たり、従って近代式の学校の新設も見られず、国民の向上発展の要因たる科学の普及を見ず、また隣邦諸国との通信機関に役立つべき新聞雑誌の公刊も許されず、また一般住民は集会を禁ぜられ、もし回教民にして人類の享受すべき正当なる権利を主張し、または国体組織を計画して相互申し合わせ等を行い、これが省政府の察知するところとなる場合には、死刑または長期の懲役に処せらるるなり。[2,p221]

当時も今も、中国のウイグル支配の実態は何も変わっていない。

■6.東トルキスタン住民の日本への信頼

東トルキスタンの地は、辛亥革命で清国に代わって中華民国が成立した後も、引き続き新疆省として支配されていたが、1930年代、漢人の暴政にウイグル人の不満が沸騰し、各地で反乱が頻発した。

その際に東トルキスタン南部に位置するシルクロード都市ホタンで、イスラム神学校の導師だったムハンマド・イミン・ボグラが武装蜂起に成功し、「ホタン・イスラム王国」の樹立を宣言して、首長となった。

しかし、ソ連が後ろ盾となった漢人軍閥に攻撃されて、王国はわずか数ヶ月で崩壊。ソ連は軍閥を操って共産主義の浸透を図っていった。

ボグラはアフガニスタンに逃れ、カブールの日本公使・北田正元(まさもと)に極秘接触した。1936(昭和11)年1月15日、廣田外相あての極秘公電で、北田公使はホタンの発言を次のように報告している。

全新疆上下の対日感情はすこぶる良かりし上、満洲国独立後は益々信頼を表せり。ソ連の駆逐には新疆の兵士自ら当たるべく、日本よりは外交上の声援と武器供給を仰げば充分なり。[2,p216]

他の極秘公電では、北田は現地情勢を報告して、日本がアジア有色人種のなかで、ほとんど唯一の強国として世界に闊歩(かっぽ)しつつあること自体が、中央アジア諸民族の精神にも、日本人が想像する以上の影響を及ぼしている、と述べている。

さらに日本が主張している「汎アジア主義」(アジア諸民族の団結による各民族の欧米支配からの独立)は、無学文盲の民衆にまで理解されており、また日本人の手による「満洲人の満洲国」が急速な発展を遂げつつある事実は、東トルキスタン住民の日本への信頼を一層増しつつある、と北田公使は伝えている。

北田は公使在任中、2年余にわたってボグラを物心両面で支援し、二人は信頼関係を深めていった。そしてボグラは、日本軍との共同作戦で、東トルキスタンの独立を計るという計画を立てて、北田に提出した。しかし、さすがに日本もこの時点で、ウイグルまで武力支援する余力はなかったようだ。

■7.「我が東トルキスタンは断じて支那の領土に非ず」

同時期のウイグル人独立運動家で、日本に亡命した人物もいる。マフムード・ムフィティという軍司令官である。

前述のホタン・イスラム王国と同時期に、ウイグルの旧都カシュガルで「東トルキスタン・イスラム共和国」が誕生した。しかし、こちらもやはりソ連が支援する軍閥により、打倒されてしまう。

共和国軍の司令官をつとめていたムフィティは、共和国崩壊後、1937(昭和12)年4月、15名の部下とともに、インドに脱出した。東トルキスタンでのソ連の影響力浸透は年々激しくなり、露骨に宗教反対の宣伝を行っていたことが原因だった。

ムフィティはボンベイの日本領事と極秘に接触し、日本への渡航を許可されて、1939(昭和14)年4月、東京に到着した。受け入れ先となったのは、「防共回廊」構想の源流・林銑十郎陸軍大将が会長を務める大日本回教協会だった。

マフィティは、有田八郎外務大臣あてに次のような「要請」を行っている。祖国独立への切々たる思いが伝わってくる文章である。

我が東トルキスタンは断じて支那の領土に非ず。・・・
 
赤化支那と屍山血河(しざんけつが)の大決戦を敢行せし我等のために、而(しか)して祖国独立戦の再挙を計る亡命の身を、貴国に託せる我等のために満腔(まんこう)の同情を寄せられ、
 
今日以降、国際防共陣営の一翼、亜細亜(アジア)民族の一員として物、心両面に渉(わた)り全幅の御支援を与えられ、我等の民族の独立保全をして、東亜新秩序の一礎石たらしめられん事を懇願する。[1,p234]

マフィティ一行は、その後、内モンゴルに移った。そこでは日本の支援を受けて独立した蒙古連合自治政府が成立していた。「防共回廊」としては満洲国に続く2番目の国となる。そのすぐ隣が東トルキスタンであった。ここではすでに東トルキスタン独立を支援する日本軍の工作機関が設立されていた。

しかし、日本の敗戦後、これらのウイグル独立運動家たちは東トルキスタンに戻っていったが、1949(昭和24)年に中国共産党が東トルキスタンを占領した際に、全員殺害されたと言われている。

■8.現代でも威力を持つ「防共回廊」構想

1941(昭和16)年4月、中国共産党は『回回民族問題』という書籍を発行した。その序言では、まっさきに日本のイスラム工作を取り上げ、「中華各民族を分裂させ、満、蒙、回の分離独立運動、実際には傀儡運動を挑発する」と糾弾している。

さらに「日本帝国主義者」の目的は世界ムスリムの覚醒を促し、全イスラム圏を一つの反共戦線に組織することであると主張し、これが中国共産党、ひいてはその後ろ盾であるソ連にとっていかに危険であるかを強調している。

「防共回廊」構想には、共産勢力も脅威を感じていたのである。この『回回民族問題』は戦後も2度、再刊され、現在でもしばしば引用される基本文献となっている。

「世界ウイグル会議」の東京開催に、中国政府が激しく反発した理由を、ラビアさんは「中国政府が、ウイグル人と日本人が連帯することを恐れているせい」と分析しているが、まさに「防共回廊」構想の脅威を、今の中国政府も敏感に感じとっているのであろう。

[1]の著者・関岡英之氏は、「防共回廊」構想の現代的意義をこう述べている。

欧米諸国が臆面もなく中国に擦り寄っているいまだからこそ、我国はウィグルへの共感と支持を率先して闡明することでイスラーム世界の覚醒を促し、強固な連帯を確立する好機なのではないか。
 
幸い日本とイスラーム圏とのあいだには、不幸な歴史や民族問題が存在しない。・・・
 
我が国がトルコ、アラブ世界、中央アジア諸国から南アジアのパキスタン、東南アジアのインドネシアに及ぶ全イスラーム圏と大同団結して壮大な包囲網を構築することができれば、中国に対する圧倒的な牽制となり、その拡張主義を封じ込めることができよう。[1,p279]

「防共回廊」構想は、今もその威力を失っていないのである。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(523) シルクロードに降り注ぐ「死の灰」
 中国に支配されたウイグル人の土地に、核実験の死の灰が降り注ぐ。

b. Wing(1367) 中国のウイグル民族浄化政策

c. JOG(625) 『NHK特集 シルクロード』の裏側
 史上最悪の危険な被爆地に、毎年数万人規模の日本人が訪れている。

d. Wing(1367) 胡錦濤主席を問いつめた安倍前首相

 
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 有本香「ラビア・カーディル総裁に聞くウイグルの『いま』(前・後編)」
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1944
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/1969

2. 関岡英之『帝国陸軍 見果てぬ「防共回廊」』★★、祥伝社、H22
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4396613598/japanontheg01-22/