真悟の時事通信 (平成24年1月16日号) を転載

キン・ニュン第一書記のことなど

二日前に、TVの画面で久しぶりに、ミャンマーの実力者だったキン・ニュン第一書記の姿を見た。ミャンマー政府が、数百名の政治犯を釈放した。その中に、軟禁を解かれたキン・ニュン第一書記の姿があったのだ。

彼は、現役の時と比べて確かに年をとっていた。体つきも少し締まりがなくなって太っていた。しかし、鋭い目は変わっていなかった。

彼と最後にあったのは、ヤンゴンにある国防省の彼の執務室だったと思う。別れるときに、彼は、「しんごー、今度来たときは、僕が国境地帯を案内するよ」と言った。それから暫くして、彼は自由を剥奪された。それから、十年が経った。

その間、三回ほど、ミャンマーを訪れただろうか。
しかし、彼のいないミャンマー政府の「要人」に会う気がしなかった。そして、政府の人に会う度に、キン・ニュン第一書記に会わせろ、と言った。すると、言われた相手の顔に緊張が走った。そして、「不可能です、不可能です」と言った。

キン・ニュンのいないこの十年で、ミャンマーに支那が押し寄せた。中部都市のマンダレーはチャンコロが制圧したような街になった。
支那の戦略は、蒋介石支援ルートの逆、つまりミャンマー支那国境から高速道路を施設してマンダレーまで南下し、そしてイラワジ川に船を浮かべてインド洋に出る、ということだ。これで、西のパキスタンと東のミャンマーでインドを包囲して、更にインド洋に出るというものだ。

しかし、昨年末、ミャンマーに支那と距離を置く転機が訪れた。ミャンマー政府は、国内の支那の巨大発電所プロジェクトを断り、アメリカのクリントン国務長官の訪問を受け入れ、アウン・サン・スーチー女史との会談を許した。そして、この度の政治犯釈放となって、キン・ニュンさんも自由になった。
また、ミャンマーに行きたくなってきた。

次に、今、書き下ろしの原稿を書いているのだが、急遽、WILLの原稿も書くことになった。
その原稿は韓国大統領の李明博が、昨年暮れの日韓首脳会談で、従軍慰安婦の補償問題を持ち出したことに関してのものだった。引き受けてから二日間は、書けるかどうか分からなかったが、昨日今日で一挙に原稿用紙三十枚に書いた。もうすぐ発売されるWILLを読んでいただきたい。

戦時中、日本軍と日本政府が、若き朝鮮人女性を「強制連行」して兵隊の「性奴隷」にしたなどというのは、とんでも無い嘘なのだ。
その嘘のファンタジーに酔ったように、街頭のテレビカメラの前で地を叩き天を仰いで嘆き悲しんでみせて朝鮮民族の恥を世界に晒している自称従軍慰安婦の婆さんを見れば、
改めて我らが思いを致すべきは、多くの、実に、多くの、
「もの言わぬ悲しみ」を秘めた戦地の女性達と兵士の物語だ。

私の知っているある女性の弟は、戦地で初めて、
「あんた死んだらあかんよ」と言われた。
彼らは、内地では、名誉の戦死を遂げよと送り出されてきたのだ。それが、戦地で、初めて、「死んだらあかんよ」と言われたときの思い。彼は忘れ得ないまま生きてきた。それを彼に言ったのは、戦地の慰安所の女性だった。
彼は生きて帰ったが、多くの男が死んでいった。彼女らに、「あんた死んだらあかんよ」と言われたことを喜びながら。

また死んでいったのは、彼女らを抱いた兵隊ばかりではない。
南の島々では、玉砕してゆく兵隊を助けて介抱し、彼らと共に死んでいった女性達もいた。その、死んでいった彼、彼女らをアメリカ兵が如何に扱ったか、記録が残っている。

二日前、アメリカ兵が死亡して並べられているアフガニスタンのタリバン兵の死体に小便をかけているビデオが放映されたが、アメリカ兵は、それ以上のことを日本兵と彼女らにしている。それがアメリカ軍の本質であることを、忘れてはならない。彼らには、武士道、騎士道の歴史がないのだ。

昨年暮れ、京都の迎賓館で、李韓国大統領から、「真の勇気をもって従軍慰安婦の補償をせよ」と言われ、「人道的見地から知恵を絞る」と答えた野田君、よく聞け。嘘の慰安婦に知恵など絞るな。
強制連行など嘘だ。その嘘を真実に見せかけるような詐欺師、ペテン師の知恵など菅にはあっても日本人にはない。従って、絞っても何も出ない。時間の無駄だ。

明日と明後日は、早朝、薄暗いときから、駅前の朝立ちだ。
肺炎が流行っているようです。
諸兄姉も、どうかお元気で。

 
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