山村明義の神代のブログ 2012-07-11 を転載

GHQに組み敷かれた日本外交の悲劇

今回は戦後の日本外交について書きたい。昭和後半から平成始めにかけて入省した外務省の官僚に話を聞くと、彼らは「幣原喜重郎が好きだ」と答えることが多い。

明治維新以来の日本外交史を紐解くと、陸奥宗光、小村寿太郎、幣原喜重郎の3人だけがなぜか「日本外交の偉人」として外交のテキストなどでも教えられることが多い。外務省の創設者である陸奥宗光は理解できるが、小村寿太郎と幣原喜重郎の2人については、「英米を中心とするアングロサクソン国」との「国際協調外交」を行ったことで知られ、いわゆる戦前の「平和外交」を担った外交官として見られているからだ。とりわけ幣原喜重郎は、外務官僚から3度の外務次官に就任、戦後2番目の総理大臣として活躍した外交官・政治家である。日露戦争後全権大使を務めた小村寿太郎を支え、ポーツマス条約をまとめて帰国してくると、「非国民」「売国奴」と国民から罵られ、日比谷の焼き討ち事件が起きたことは、いまだに日本の外交史に強く影響している。つまり、「外交面では国民は馬鹿で、外交官しか出来ないものだ」という常識がこの頃から続いているのだ。

なぜ、現在の外務官僚たちも幣原喜重郎が好きなのかと言えば、彼は、英米追従型の「幣原外交」なる「協調外交」を始めた創始者だからだ。周知の通り、戦後の日本外交の基本方針は、「国際協調」であり、それが戦前の反省に基づいていることは論をまたない。

だが、戦後の日本外交「戦前の日本外交」とは、それほどダメなものだったのだろうか。確かに悪い面もあった。例えば、昭和21年の日米開戦直前、アメリカのハル国務長官が、最終通牒と呼ばれた「ハル・ノート」を突きつけた。日本政府が「宣戦布告」の電文を送った際に、日本の外務省は海軍中将でもあった野村吉三郎駐米大使が、たまたま友人の葬儀に出ており、しかもタイプライターが遅くなって、結局、ハワイ攻撃での宣戦布告が1時間遅れるという大失態を演じた。これは、軍と外務省との確執が背景にあるとされているが、いまだに歴史の謎になっている。

その後、幣原は、大東亜戦争が始まると、交戦国となった英米追従外交が不可能になり、一度は引退を決意するが、東久邇稔彦首相に次ぐ戦後2番目の総理大臣に迎えられた。当時の吉田茂自由党総裁の指名があり、「GHQから気に入られたため」であったといわれる。先に述べた内務省などがGHQに解体されたのに対し、アメリカを中心とするGHQの意向によって、幣原の「国際協調(平和)外交」を是として、外務省はアメリカに組み敷かれた。日本が国際社会では常識である「軍事は外交(政治)の一手段である」という方法を取れなくなったのは、この幣原首相時代から続いた日本外交の悲劇である。

一方、戦後パージされて名前が日本外交史から消されてしまったが、優秀で情の厚い外交官もいた。その一人が重光葵である。重光は東京裁判で懲役7年の実刑判決を受けた「A級戦犯」であったが、本当は、日本の自由と自立に務めた真の立て役者であった。大分県出身で天皇に対する崇敬の念の強い重光は、上海事変で講和条約を締結する式典の最中に、朝鮮人のテロによって片足を吹き飛ばされるが、国歌斉唱の途中で、それでも逃げなかった。いまの外交官には誰にも真似ができない意志の強い外交官であった。

日本の外交史を虚心坦懐に見ていくと、私は戦後の日本外交の「自立」と「価値観」を進めたのは、客観的に幣原ではなく、重光葵であると断言できる。その証拠に、GHQが占領相手国の日本に対して、思想や教育などすべての点において洗脳した「ハーグ(陸戦)条約違反」の行為を犯したのに対し、幣原は完全なる無力だったが、日本人の民族自決の原理を最後まで抵抗したのが重光だったのは明らかであるからだ。日本外交史は、「平和主義」の呪縛に囚われ、その後、アメリカの意向なくては動けないシステムになってしまった。

いま、日本独自領土である尖閣諸島に対し、中国人民解放軍幹部が「6大計画」なる占領計画を公表しているが、これに対して日本の外務省や「パンダ外交」にうつつをぬかす日本のマスコミは、あまりに無力である。この元凶を作ったのがGHQであり、その掌の上に踊らされた外務省であることは間違いない。

 
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