山村明義の神代のブログ 2012-06-04 を転載

日本の「保守」とは何か?

いま日本は、間違いなく「左翼」の時代が終わり、「保守」による新たな時代を迎えようとしている。
例えば、思想を問わず時代が変わるとき、その場所には男女問わず大勢の人が集まり、多くの意見や情報が集めるようになる。いまの「保守」の世界の現状がそうだ。いまは日本のどんな場所のイベントでもネットでも、性別や職種と関係なく、「日本を守りたい」と考える多くの日本人が結集をし始めている。

これまでのように、日本人や日本国家など日本的なるものを否定し、ただひたすら批判するだけしか能がなかった「左翼リベラルの時代」は過去の遺物として終焉したはずなのだが、それが顕在化しない理由は、ハッキリ言って「保守」にはいまだ弱点も多いからだ。

その一つが「保守」の定義すら明確ではないことだ。
例えば、同じ主張をしている日本人が、あるときは「原発問題」や「TPP」の問題では意見が分かれたりする。政治でも同じ政党でも「保守」と「左翼リベラル」が同居しているとされる。同じ「保守思想を」持つ人間であるなら、なぜ割れてしまうのか、という素朴な疑問である。

これはもっとも意見らしく聞こえるが、実は私から言わせてもらうと全然違う。
その理由は、「保守」という定義が、「若い人を中心に出来て来なかっただけだからだ。その中には、過去の「左翼」のプロパガンダ批判の典型であった「右翼」と言われるのが嫌で、感情的に「保守」と自称してしまっている人たちがいる。また若い日本人の中にも、「保守」とは何たるかを教わって来なかったり、単に「古いシステムを守る人」と呼ばれるのを避けるために、「保守」とあえて自称しない人々がいる。これでは、後世の人たちは益々混乱するばかりだろう。

私自身の「保守」の定義は、ごく簡単で、次の二つである。
一つは、「歴史や伝統など古いものの中にもいまの世の中に役に立ち、良いものがある」と考えられる人であるかどうか。
もう一つは、「外国よりも日本の国益を優先的に考えられるかどうか」だ。

一つ目については、左翼リベラルの中にも歴史書を読み、伝統ある産業を職業にしている人がいるが、そこから日本人としての生き方や教訓を本当に学ぶことができるのが「保守」である。逆に古今東西、「左翼」は歴史や伝統を破壊しようとするだけだった。この未曾有の危機の中で、これからも「日本の歴史や伝統あるいは経験」に学ばず、ただ単に壊そうとするだけなら、その日本人は明らかに「保守」ではない。

そしてもう一つの「外国よりも日本の国益を優先的に考えられるかどうか」という定義とは、外国あるいはグローバリズムを軽視して見たりすることではなく、「自分たちや子孫の住む日本をどうやって強くそして長く生きながらえるように、真剣に考えることが出来るかどうか」が大事なのだ。

その意味では、日本人が「脱原発」について考えることは、その賛否を問わず、これからの日本人がどうエネルギー問題や資源問題を考えることにつながるため、「保守」であるかどうかという問題とは無関係だと私は考えている。大切なのは、いま日本人が日本を守ろうという具体的な論理と精神性なのである。

逆に言えば、過去の日本人は、国際常識として当たり前のこの2つの定義すらまともに考えられなかったわけである。そのような危機感のない人々は、もはや日本国家に不必要なだけでなく、「保守」でもない。國や組合からお金をもらっていながら、國を批判し労働運動や人権平和活動だけを行ってきた人々は、単にこれまでのシステムに乗せられて「既得権益」を守っているわけだから、これも「保守」ではない。

この2つの定義に当てはまらない人以外とならば、いくらでも連携し協力して手を結ぶー。それこそが将来の日本を背負って発つ「保守」の人間なのである。これからその2つの定義で生きていく「保守」の日本人たちは、日本で大きく新しい波と潮流を起こし続けるのは明白である。

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