建国以来、中国とロシアを両天秤にかけながら存続している北朝鮮。
先日ニュースで見た、金正日と会談するメドベージェフの表情には緊張感があった。日本の首相に対してあのような緊張感はない。いつもながら、北朝鮮の外交力には感心する。
北朝鮮にそれができるのは独裁国であるがゆえ、「いつでも覚悟を決めるぞ!」という体制でいるからだ。
外交は、覚悟を示すことからはじまる。憲法改正などの論争をしている次元では、諸外国との対等な関係は築けない。
アメリカの外交力とは、圧倒的な火力を背景にした国民の団結力と、覚悟を世界に示すことで成り立っている。
民主党政権下において危機感を募らせた市民が各地で集会やデモをおこない、「覚悟を決めるぞ!」と機運が高まっているが、それを継続し、成熟できるかどうかが重要だ。
民主党ごっこで政治が動く日本は、中朝露にとって最も安心できる隣国であり、資金源である。
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成23(2011)年8月29日通巻第3410号 を転載
金正日の帰路、中国ルートはパイプライン追認のルート
満州里―ハイラルーチチハルー大慶―哈爾浜―通化―集安から帰国
20日に北朝鮮をでた金正日はロシアのシベリア鉄道を延々と三日かけてウラン・ウデまで。ここでメドベージェフ大統領と会って、六者協議への無条件復帰を公表したが、もう一つ、協定に署名したと報道されたのはパイプラインである。
現在、シベリアから大慶までのパイプラインは現存しており、ロシアは中国へ鉄道にくわえてパイプラインでも輸出している。このパイプラインは、南西ルートを経て、北朝鮮へ至り、北を通過して韓国へ至る。
日本向けはロシア国境を延々とナホトカまで。まだ工事の見通しはたっていない。
さて地図をひらいて確認してみよう。
往路、金正日は吉林省図門から、一度、中国領の軍春を経由してポシェット(ロシア沿海州)へ出たと思われたが、どうやら北朝鮮の日本海側を北上し、ロシアへは、いきなりポシェットへ入り、ウスリースク→キーロフスキー→ハバロフスク→ベルグロスク→チタ→ウラン・ウデへと向かった。
ナホトカはシベリア鉄道の始発駅だが、北朝鮮からのルートの場合、ウラジオもナホトカも脇道になる。
帰路は満州里へ現れた。
ここは戦前の満鉄が経営していた最北西端の駅。炭坑町。いまや中ロ貿易で潤い、摩天楼も建っている。
この満州里で将軍様ご一行を出迎えたのは、戴乗国(副首相クラス)を先頭に、王家瑞(対外連絡部長)、胡春華(内蒙古省党書記)、盛光祖(鉄道部長)とそうそうたる幹部が揃った。
このあと、金正日は、ハイラル(海拉爾)で胡春華主宰の晩餐会に臨んだという説がある。胡春華は団派のライジングスターだから、胡錦涛の意図を酌んでのことだろう。
そしてハイラルに宿泊(現在のハイラルはホロンバイル市ハイラル市。かつて日本軍の巨大陣地があった)、翌日はチチハルと大慶という工業都市で機械工場などを見学し、哈爾浜は夜行列車なみ通過した。
そのまま牡丹江→スイフェンガ、もしくは牡丹江を南下して図門へいたり、北朝鮮へ帰るコースを選ぶと推測された。
ところが金正日は哈爾浜のあと一気に南下しはじめ、長春から通化へはいってワイン工場を見学した。通化は旧日本軍参謀本部が暫定的に置かれ、終戦後は通化事件で日本人三千人が殺された場所。
このあと、将軍様ご一行は集安という国境の町で見送りをうけ、北朝鮮は帰っていった。
2010年は五月に大連は現れたが、新義州から対岸・丹東へ入り、李克強の出迎えを受けた。そこから車で大連入りを果たした。丹東―大連間に鉄道はない。
同年8月には長春にあらわれ、哈爾浜へ北上したが、このときは胡錦涛が長春の宿舎を訪ねた。
こんかい、或るマスコミは習近平がチチハルか大慶に飛んだと推測記事を流したが、習はバイデン米副大統領にアテンドしたばかりであり、政治局常務委員は、ロシア帰りの通過駅にまで行って、金正日をもてなす気はなかったようだ。
そのうえロシアと中国を天秤をかけるような、だいそれた帰路の中国立ち寄り演出など、中国としては不愉快でもある。
かくて八日間におよんだ金正日の中ロ行脚、鉄道の旅は幕を閉じた。