1945年7月に約80人の犠牲者を出した「尖閣列島遭難事件」。石垣島から台湾へ向かっていた疎開船2隻が米軍機の爆撃を受けて1隻は沈没し、1隻は尖閣列島に漂着したが餓死者も出るなどの犠牲者を出した。石垣市が69年に魚釣島に慰霊碑を建立したが、領土問題が絡んで上陸できず2002年に石垣市新川に新たに建立された。

領土問題が絡んで上陸できないのは、日本政府の責任である。存在しない領土問題を認めてしまったのだ。遺族会はやむなく石垣本島に新設した。

その後、自然災害で碑の側面が崩れたため、遺族会は周辺整備を決定したが高額であるがために放置状態であった。今年にはいって地元の八重山農林高校の協力を得て、同校の土木コースや造園コースの生徒たちのボランティアによって整備された。

沖縄と国の間にある感覚の隔たりは厚く、遥か遠い国の如しである。

琉球新報 2010年12月28日

「尖閣遭難の碑」周辺整備 八重山農林・緑地土木科3年生

【石垣】沖縄戦終結後の1945年7月に起きた「尖閣列島遭難事件」の慰霊之碑の周辺整備に、八重山農林高校(下地盛雄校長)緑地土木科の3年生34人が取り組んできた。遺族の依頼で工事を請け負い、授業で資格試験を通して学んだ技術を存分に生かし、地域貢献や仕事の喜びを感じている。

尖閣列島遭難事件は、石垣島から台湾へ向かっていた疎開船2隻が米軍機の爆撃を受けて1隻は沈没し、もう1隻は尖閣諸島に漂着したが餓死者も出るなど約80人の犠牲者を出した悲惨な事件。石垣市が69年に魚釣島に慰霊碑を建立したが、領土問題も絡んで上陸できないため、2002年に石垣市新川に慰霊碑が新たに建立された。

碑の横ののり面が雨や台風で崩れたため、遺族会は09年、周辺整備を決定したが見積もりを取ったところ高すぎて発注できずにいた。そこで、平和教育の一環で2年前から7月3日の慰霊祭前に、人の背丈ほどに生い茂った雑草を刈っていた同校に施工の相談をした。

同校は「実践力を付けさせられる」(内間忍教諭)と快諾。生徒たちは土やトンブロックを運び入れ、通常100万円掛かる工事を、実費25万円で完成させた。

土木コースの玉津則貴君(18)は「勉強してきたことで初めて地域に貢献できて、すごくうれしい」と喜ぶ。造園コースの生徒たちは技術を生かして敷石を設置し周囲に植樹もした。新里竜太君(18)は「おばあちゃんたちが通るから段差がなくなるように工夫した」と話す。

遺族会会長で生存者の慶田城用武さん(67)は「遺族も生存者も高齢化が進んでいる中、協力してもらえて非常にありがたい」と若いボランティアたちに感謝した。
(深沢友紀)