『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報)
平成24年(2012)8月30日(木曜日) 通巻第677号 を転載

三島由紀夫研究会第244回公開講座

「沖縄問題にみる日本の国防」

講師:宮本雅史氏(産経新聞社那覇支局長)
 

1、英霊を通じた沖縄への思い
 
私は沖縄に赴任してまもなく3年になる。新しい地域に赴任すると、昔から自分の中で3ヶ月、6ヶ月、3年という区切りを必ず設けている。まず、そこで目に付くもの、匂い、見聞きするものがどういうものか。
初めての土地であるからこそ、驚きや喜び、怒り、疑問など、色々なものが沸々と湧いてくる。しかし、3ヶ月、6ヶ月、3年と経つうちに、段々と慣れてきてしまうという恐さがある。

たとえば、最近、中国艦船が沖縄本島と宮古島の間を盛んに往来しており、最初の頃は日本国内にも緊張感があった。ところが、その回数が頻繁になってくると、慣れてしまうようになる。
それゆえ、私は3年という期間を一つの区切りとしている。そして、この3年の間に自分自身が見聞きしたもの、感じたことや疑問に思ったことを書きたいと考え、それが著書『報道されない沖縄 沈黙する「国防の島」』(角川学芸出版、2012年)の出版につながった。

沖縄赴任以前は東京本社の社会部で対馬問題を担当し、韓国資本による対馬の不動産買収の実態を取材していた。
そして外国資本による日本の土地買収を規制するための防人新法をつくるためのキャンペーンを1年半ほどやっていた。同様の法律は米国・韓国にもあり、ようやく議員連盟も設立直前を迎えていた中で、民主党への政権交代となり、私自身も沖縄に赴任することになった。当時、民主党政権の下で米軍普天間飛行場の辺野古への移設がご破算になりかけており、その問題を取材するのが目的であった。

沖縄には地元紙2社に加え、朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、日本経済新聞、共同通信、時事通信、NHKなど、様々な記者がおり、それぞれの目で沖縄を見ている。それまで私は沖縄に来た経験はなかったが、沖縄への思い入れがある。

大東亜戦争末期、鹿児島・知覧飛行場からは多くの特攻隊員が出撃しており、その遺族や元搭乗員に取材し、『「特攻」と遺族の戦後』(角川学芸出版、2008年)という本を書いたことがある。その方々に沖縄赴任を告げたところ、「自分たちの代わりに沖縄を見てきてください」という声を数多くいただいた。
岐阜県在住の遺族からは、「今の日本を見てると、あの人たちがどうして死んだのか分からない。可哀そうだ」、「私は沖縄には行けないが、あの人たちが亡くなった沖縄をちゃんと見てきてください。沖縄が国防の要であると言うけれども、本土に住む日本人はそれを分かっているのかしら。あの人たちの死を無駄にしないでください」と言われた。このような思いがあって沖縄に赴任したため、米軍普天間飛行場、オスプレイ、沖縄振興策といった問題を見るとき、あるいは尖閣諸島の問題を取材するとき、自分には必ず英霊というものがついてくるような気がするのである。

▼沖縄から本土へ発信されている情報はほぼ事実と反対

私が沖縄に来て一番愕然としたのは、本土と沖縄の温度差である。
沖縄から本土へ発信されている情報はほとんどが事実に反している。米軍基地の必要性を問われたとき、ほとんどの人は不必要であると答えたいはずである。けれども、そのように言えない事情が沢山ある。それは本土に住んでいる人間の思いと沖縄に住んでいる人間の思いが別ということであり、そのことが本土に伝わっていないことが沖縄問題を難しくしている。

8月10日、韓国の李明博大統領が竹島に上陸した。
そのニュースを聞いた時に思ったのは、同日の同時刻にロシアの首脳が北方領土に上陸し、中国が尖閣諸島に進出したらどうなるのか、ということだ。
日本の政治家たちは抗議の意思を表明するけれども、それ以上は何の手も打てないからこそ、外国から軽く見られている。だからこそ、上陸を許してしまうのである。同じように、日本国内の問題としての普天間飛行場移設問題を処理できずにいる。これらの諸問題をリンクさせてしまうことに、日本の政治体制が抱える問題があるのである。
                      
2、名護市の実情

私は沖縄赴任前に全ての新聞に目を通した。当時、鳩山由紀夫首相が普天間飛行場の県外移設を表明していた直後であり、すべての沖縄県民が辺野古移設に反対である、という報道をしていた。

赴任後、地元紙の『琉球新報』、『沖縄タイムス』を読むと、連日、辺野古移設反対の論調を組んでいた。しかし、海兵隊基地「キャンプ・シュワブ」のある名護市辺野古に行くと、取材に来た新聞記者は私が初めてということであった。しかも、辺野古の人に話を聞くと、辺野古移設については地元住民の8割から9割が条件付きで賛成ということであった。実際、数日かけて30人ほどにインタビューしたが、8割から9割が賛成だった。

その上で、どうして他の新聞社が来ないのか聞いたら、最初から反対ありきの風潮があること、その風潮は40年前の本土復帰から、ということだった。

昨年11月初旬、地元住民の8割から9割が条件付きで辺野古移設に賛成であることを産経新聞1面の記事にしたところ、賛否両論の反応があった。支局には沖縄以外の人間からも嫌がらせ電話があり、それが数日間、夜中まで続いた。2010(平成22)年1月に名護市長選があり、条件付き移設容認派の市長が敗れ、移設反対派の革新候補が当選した。

当時、本土紙は米軍移設問題が市長選の争点であると書き立てたが、実態がそうではない。名護市で米軍移設反対を明確に主張している人はほとんどいない。それは沖縄本島北部が経済的に貧困であり、地場産業がない。16年前、当時の名護市長は北部振興策として1000億円の交付を条件として辺野古移設を受け入れた経緯があるからであり、名護市民もそのことは知っている。

▼沖縄県民には国防という意識が薄い

ここで大事なことは、沖縄県民には国防という意識が薄いことである。沖縄は海に囲まれて国境がなく、500年間、中国の冊封体制下にあった。首里城には唐・明王朝が沖縄をチベットと同様に位置付けていた史料が残されている。
その後、薩摩による支配、明治政府への編入、米軍統治下、日本本土への復帰という変遷を経てきた。
そのため、沖縄県民は国防について、内地の人々とは異なる意識を持っている。それが「何か来ても、やりすごす」という意識であり、それが今となっては通用しないという事実を知らされていない。その原因を作っているのが地元メディアである。

「キャンプ・シュワブ」と隣接している基地に「キャンプ・ハンセン」がある。この基地は名護市が貸与しているものである。米軍は日本政府・防衛省に対して、「キャンプ・ハンセン」敷地の何割かを返還するという打診をしているが、名護市民は軍用地代がなくなることを理由に反対している。

米軍基地があることで市や町に軍用地代や補助金が入り、私有地が含まれる場合は個人にも軍用地代が支払われる。ある自治体の米軍基地と隣接する区(集落)の場合、額面10億円の預金がある。
基地関連の補助金をプールしたもので、この区では、それを各家庭に年間60万円から90万円の割合で交付している。そのため、この地域の老人たちは年2回前後海外旅行に行っているといわれる。
このような生活を40年も続けてきたので、本来は米軍基地の撤退など望んでいない。ところが、左傾化した地元メディアの影響で米軍基地反対の声が大きくなった結果、それに流されてしまい、本心を打ち明けられないでいるのである。

3、地元メディアが引っ張る「世論」

今、反原発運動がファッションになっており、そのことは沖縄にとって追い風になっている。8月5日午後3時から宜野湾市でオスプレイ配備反対の県民大会が開催される予定だったが、台風の影響により、9月9日午前11時からに延期となった。

開催時刻を早めたのは、9月9日が防災の日であるためである。沖縄の人々にとっては、防災の日よりも県民大会のほうが大事だという意識が強いのである。主催者側は11万人以上の動員を目標に掲げており、そうした気運を煽動しているのが地元の新聞社・テレビ局である。

2010年4月、読谷村で普天間基地の県内移設反対のための県民大会があった。会場内には様々な運動団体の旗が立っており、来賓のスピーチが終わると、主催者側の指示に従って、一斉に旗が倒された。
数日後、琉球新報社は特定団体の旗がほとんどない状態で多くの参加者が集っている様子の写真集を出版した。一見すると、まさに沖縄県民140万人の総意として県内移設に反対しているように思わせる内容であった。その写真集はある活動家が中心になって作ったものであり、まさに意図的に世論を誘導しようとするものであった。

昨年暮、防衛省から沖縄県に対して環境アセスメントの最終報告書が提出された。反対運動に鑑みて、県庁への搬入は深夜になったが、敷地内や県庁内には早朝から反対派の活動家が座り込んでいた。
3日間、県庁正門ではライトバンやタクシー、乗用車が来るたびに活動家に取り囲まれ、県職員はそれを遠巻きに見ているだけだった。

徒歩30秒ほどの場所には沖縄県警本部もあるが、警察に出動要請がなされることもなかった。県庁の敷地を離れると、街並みと市民はいつもと同じであったが、沖縄のメディアは内地に対して、沖縄県民すべてが反対しているかのような情報を発信する。このため、いくら私が防衛省の関係者や政治家、ジャーナリストらに沖縄の現状を話してもなかなか信じてもらえないのである。

▼鳩山が狂わせた沖縄基地問題

そもそも辺野古移設問題は鳩山政権になっていなければ、進んでいたはずである。鳩山首相による移設発言があったので頓挫したが、沖縄県民は辺野古移設でもいいと考えている。

沖縄には「言い出しっぺは損をする」という格言がある。最初に発言すると責任を取らなくてはならないので、他人に付いていくのがいい、という意味である。実際に大きな声を出しているのは活動家と一部メディアであり、沖縄県民の大勢ではないのである。

2010年4月に普天間基地の県内移設反対県民大会が開催されたとき、そこに仲井真弘多沖縄県知事が出席するか否かという問題が起きた。
県内メディアが出席を要求するキャンペーンを展開する中、仲井真知事は大会2日前まで答えを保留した。県民大会は黄色がシンボルであり、仲井真知事は会場に入る前までは黄色のかりゆしを着ていた。

ところが、会場に入ると、ブルーのかりゆしに着替えた。そして、スピーチを済ませて退場する時、再び黄色のかりゆしに戻した。仲井真知事は知事就任後、一貫して普天間飛行場の危険性除去に取り組んでおり、辺野古に移転してから段階的に基地縮小を図ればいい、という考えに立っている。
その考えは今でも変わっていないはずであり、県民大会への出席に際しても、かりゆしの色で自己主張をしたと考えられる。

4、沖縄の教育はなぜ偏向したか
 
今年5月15日、宜野湾市では沖縄県祖国復帰40周年記念大会が開催され、野田首相が主賓として招かれていた。この40年間、日本の首相・閣僚が沖縄を訪れると、必ず沖縄戦や米軍基地についての謝罪の挨拶から始まり、これに対して沖縄県知事は振興策の話を切り出すことで応えていた。こうして沖縄振興策は拡大していったのであり、上記の祖国復帰40周年記念大会はまさに40年間の日本と沖縄の関係を象徴するものであった。 

この記念大会開会式で国歌斉唱の際、地元新聞社の社長だけが起立しなかった。もともと沖縄の「祖国復帰運動」は学校の教師たちが始めたものである。彼らは沖縄県教職員会を設立するとともに、戦争で荒廃した子供の心に夢を持たせるために歌集も作った。

教科書は日本本土から輸入し、日本語や日本の歴史を教えつつ、家庭に日の丸を配ったりしていた。
ところが、1960(昭和35)年ごろから、県外から色々な人が入ってくることで沖縄の教育がおかしくなってきた。復帰前年の1971(昭和46)年、沖縄県教職会が沖縄県教職員組合に発展されるが、その音頭をとったのが反米・反日的な人々であった。

▼沖縄県外からやってきた反日派

そして、1973(昭和48)年に沖縄県教職員組合は日教組の傘下に入るが、その目的は全国的な反米運動のためであった。その結果、沖縄県では小・中学校時代に君が代を教えられてこなかった世代が教師になり、今でも国歌斉唱が指導できない状態となっているのである。

また、県内の左翼活動家は米軍基地にだけ反対しているのではない
仮に米軍基地がなくなった場合、次の標的は自衛隊である。現在、与那国島への自衛隊配備の計画が進んでいるが、反対派は住民投票に向けた条例制定を可能にするための署名運動を集めている。与那国島の人々に話を聞くと、国が決めるべきことをわれわれに判断させるから話がこじれる、と言う。このことは普天間基地移設問題も同じである。

米軍基地周辺では地元住民が40年間にわたって米兵と交流し、一種の運命共同体のような生活を送っている。アフガニスタンで戦死した兵士は死ぬ直前、「辺野古のパパに自分が死んだことを伝えてくれ」と言って、息を引き取った。
「辺野古のパパ」とは基地近くに住んでいる日本人のことである。東日本大震災では沖縄の海兵隊も災害支援活動にあたったが、沖縄では海兵隊の活動についてほとんど知らない人が多い。実際、地元紙が米海兵隊と自衛隊の記事をどれだけ掲載しているかという統計をとったところ、米軍についての報道は皆無であった。

5、沖縄から日本全体を見る
 
米軍基地と沖縄の関係を考える上で忘れてはならないのは沖縄振興策のことである。1972年の本土復帰後、目に見える形での振興策は約11兆円に達する。それに加えて、酒税、揮発油税の減税措置、港湾工事の特別待遇も含めると、10数兆円になるが、沖縄県民はこれらを実感していない。

平成24年度の振興策は3000億円弱であり、そのうち、一括交付金は1500億円強である。昨年秋、沖縄を訪れた竹歳誠官房副長官は私たちに対して、「沖縄は40年間ずっと特別ですから」と言った。こうして2500億円に抑制するはずであった振興策は最終的に3000億円弱になったのである。

しかも、一括交付金を沖縄県の要求通り1500億円にした根拠は新しい事業計画があってのものではない。減額されることを前提にして「とりあえず」という感覚で算出したものであり、今でも使い道は決まっていない状態である。こうした中で、内地のコンサルタント数社が沖縄の人に知恵を貸してやろうという口実で沖縄県内に入り込んでいる。これが振興策の実態なのである。

今、沖縄財界には自分たちが一番優遇されて幸せであるという実感がある。しかし、反面、感謝の気持ちは希薄だ。その原因は大東亜戦争期や米軍統治下、そして、米軍基地を押し付けられているという被害者意識があるためである。すでに沖縄戦からは67年の歳月がたったが、その記憶を忘れさせないという勢力が存在するのである。

日本全国における米軍基地の総面積は約10万2781ヘクタールであり、そのうち沖縄の米軍基地面積は2万3247ヘクタールであり、割合としては22.6%である。先日、あるジャーナリストがテレビ番組で、「沖縄は在日米軍基地の75%も占めている」と発言していたが、これは数字のまやかしである。

正確に言うと、平成23年現在、在日米軍基地の総面積のうち、沖縄では米軍専有基地がその74.9%を占め、米軍と自衛隊の共有基地が約25%であるということである。しかし、沖縄戦以来の被害者意識を蒸し返そうという勢力がこの基地問題を利用しているのである。

▼沖縄県知事は日米安保に賛成している

また、沖縄にとって6月23日は沖縄戦が終結した慰霊の日である。6月23日前後から県内では平和教育が盛んに行われるが、学校では旧日本軍の残虐性を強調したビデオを放映する。こうした教育によって、県民の中には自衛隊や国防、国旗・国歌を忌避する意識が醸成されているのである。

沖縄から内地には色々なメッセージが出ている。仲井真知事は日米安保体制に賛成し、日本全体で国防を考えてほしいと言っているが、その声はなかなか外部には伝わっていない。

私たちは何かあるたびに「反米」「親米」という色分けをするが、それよりも「親日保守」を原点にして物事を考えるべきである。日本全体で国防を考えてほしい、とい仲井真知事の主張の真意もそこにあると思う。日本のためにいいことは何か。私はそのような発想で考え直すべき必要性を沖縄に来て実感した。「親米」「反米」という言葉は分かりやすいが、すべてを米国に投げるようなスタンスではいけない。沖縄県民の琉球に対する思い、愛郷心は強く、それがあるからこそ、彼らは一つにまとまることができる。

沖縄では5年に1回、「世界うちなんちゅー大会」が開催される。沖縄は「移民県」であり、世界各地に沖縄の人々が散らばっているからこそ、そこには何万人もの参加者が集まる。沖縄の人々が一つにまとまることができるのは、琉球舞踊といった伝統芸能、沖縄空手といった伝統武術があるからである。沖縄の人々には自分たちの先祖から伝わる伝統文化を通じたまとまり、郷土愛という面では内地の人々よりも強いものがある。

沖縄県知事が首相・閣僚と会見するとき、県知事としてではなく、沖縄という一つの国として交渉をする。だからこそ、予算がとれる。そして、そのしたたかさこそ、沖縄の人々が沖縄を愛する気持ちと直結しているのである。そう思ったとき、内地の人々は何かを忘れているのではないかと感じるのである。何のために何を守るのかという国防の問題を考える上でも、こうした伝統文化の問題は重要であるはずである。

振興策、米軍基地、尖閣諸島の問題も含め、いい意味でも悪い意味でも、沖縄は色々な問題を集約している。小さな島国かもしれないが、沖縄を見ることは日本全体を見ることではないかと考えている。

国防についてはすぐには実感できないかもしれないが、今日のような政治情勢であるからこそ、今こそ真剣に考えてみたい問題である。世界の中の日本という視点があるように、沖縄は日本の一つであるという発想で沖縄問題を考えるならば、日本全体も変わるのではないだろうか。

(三島由紀夫研究会事務局速記)

 
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