宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成23年(2011)4月15日(金曜日)通巻第3303号 を転載
<北風抄>コラム
いでよ、平成の後藤新平
敗戦、あの廃墟から身一つで立ち上がって奇跡の経済復興を遂げてきた日本が、またまた東日本大震災という未曾有の国難に遭遇した。敗戦に匹敵する惨状だが、今後、いかにして身を起こし不死鳥のごとく復活できるか。懊悩と試行錯誤が続いている。
この災禍を「天佑」と比喩した評論家がいたが、筆者は「天譴」ではないかと思う。
筆者の脳裏を去来するのは関東大震災から復興したときの開発と都市改造プロジューサー=後藤新平のことだ。1923年の関東大震災は東京を焼け野原にした。後藤新平内務相を総裁とする「帝都復興院」がただちに発足し、大手術を開始した。
後藤は「大風呂敷」ともいわれたが昭和通りなど大規模な幹線道路網、区画整理で近代的な首都構築を指導した。彼には大胆で斬新な発想力と優秀な人材の登用、信念に基づいた政治力があった。
現在の我が国の指導者が徹底的に欠いている要素である。
この復興への経緯は歴史の教訓となりうる。「復興院」の前に後藤が手がけた台湾復興が東京大震災以後の復活プロジェクトに大いに役に立った。後藤は台湾民政長官をつとめた。
当時の台湾は蛮族が跋扈し、ペスト、赤痢、チフス、毒蛇が蔓延して不衛生極まりなく、漢族と原住民部族の対立があり、産業は未開のまま、およそ近代化には遠い状況だった。
後藤は台湾近代化、開発のためには何が目的か、その目的達成のためには何が大切かを考えた。明治政府の全面的な支援の下、諸改革を敢然と実行に移した。
まず無能の役人を馘首し、新しい人材を適所に配置した。そのなかには新渡戸稲造も含まれていた(現在の日本は無能官僚が多い)。
住民の自治を尊び、交通網を整備し劣悪な衛生環境を改善し下水道の整備を急いだ。
後藤は開発近代化の財源を確保するために地方債券を発行し土地改革をすすめた(だから日本は大胆に「復興国債」を発行すれば良いのである)。
やがて台湾も鉄道が敷設され、基隆港が整備された。産業を奨励し、砂糖、樟脳、茶、米、阿里山の開発が進められた。貿易の拡大にも乗りだし、外国資本が独占していた商船の運搬を民間にも広げ、今日の経済の基礎を築きあげた。
そうだ、いまの日本に必要なのは「平成の後藤新平」である。
さいわいにして日本人は戦後久しく忘れていた民族の精神を回復しつつあり、団結が各方面に見られる。今後しばらくの呻吟、艱難辛苦があろうけれども国家の再建をおこなうに千載一遇のチャンスであり、東北地方のみならず一気に日本国家再建へと歩を進めるべきである。
そのために復興の国債購入者には相続税減免などで優遇し、壮大なプロジェクトを増大すれば雇用の拡大に繋がる。またODA減額や福祉方面の監視強化など冗費節約にも努力し、日本が持つ膨大な海外債権の一部も取り崩せば財源の確保につながる。
後藤新平にならった復興院を中枢に国債の大規模発行、復興税、建築プロジェクトの実践などを早期に開始すれば復興は迅速になるだろう。
(この文章は『北国新聞』4月11日コラム『北風抄』の再録です)