地元だけでは見えない大局観、外部からでは見えない地域性。沖縄で生まれ育ち、本土で暮らすことによって見えるもの。本土で生まれ育ち、沖縄に暮らすことによって見えるもの。それぞれに立ち位置が違えば考えも違う。

沖縄に対する本土の印象とは、「基地の街」「米兵の犯罪が絶えない恐怖」「自決を強要された」「反戦平和を願うが叶わない街」「政府による差別」など、苦しみや悲しみの印象が多く与えられるが、現実は必ずしもそうではない。
こうした沖縄県内のメディアが発する情報に最も違和感をもっているのは、ほかならぬ沖縄県民だ。その傾向が年々増す一方で、最近では「沖縄の真実」を世界に広めようとする活動も顕著になってきた。

沖縄出身で東京に暮らす女性の、「守られる沖縄」から「日本を守る沖縄」へ、という言葉にこそ、強い沖縄女性の気性があらわれている。今の沖縄を強く明るくしていくのは、石原慎太郎的なダイナミズムを発する政治リーダーであって、「被害者意識」を訴え続ける政治家ではない。

外部からの圧力に屈することなく、八重山地方の真実を公平に報じる「八重山日報」に寄せられた記事です。

八重山日報 2013.05.09 を転載

「日本を守る沖縄」へ 兼次 映利加

進学のために那覇市から上京して、ちょうど10年が経ちました。ふるさとをとりまく環境は、わたしが沖縄に暮らしていた頃のそれとは全く異なるものになったと感じます。以前から問題であった米軍基地返還・移設問題、教科書採択問題、そして尖閣領海侵犯問題…。問題が解決しないうちに新たな問題が起こり、まさに山積状態です。

「なぜ、悲惨な地上戦を経験した沖縄に基地が必要なのか」
「なぜ、育鵬社の教科書が採択されたのか」
「なぜ、中国の領海侵犯に機敏に対応しなくてはならないのか」

これは県内外を問わず人々が抱く自然な疑問だと思います。かわいい我が子にこのような質問をなげかけられたときに、どれだけの大人がはっきりと答えることができるでしょうか。
それは、自分の身を守るためであり、自虐史観から脱し子どもの尊厳を守るためであり、父祖が築いたこの土地を守るためです。

社会生活において強盗事件が起こればわたしたちは警察を呼びます。しかし例えば沖縄の船が攻撃を受けたとき、あるいは島民が命の危機にさらされて自衛隊の助けが必要なとき、今の憲法では自衛隊を即座に出動させることはできません。実際にそのような事態に陥ったとき、わたしたちには解決の術がないのです。それは、大事な仲間や家族の危機を黙って傍観するしかないということを意味します。

沖縄は平和を愛する島ですが、自衛隊や基地をなくせば平和が訪れるのでしょうか。平和を重んじ、武力を持たなかったチベットという国は、1950年以降隣接する中国に侵攻され、たくさんの人が虐殺され、今なお弾圧は続いています。沖縄から基地を追い出し、自衛を放棄することは、新たな侵略の歴史を自ら招き入れるのと同じことです。

長い歴史のなかで、大和との統一やアメリカによる統治を経験した沖縄ですが、わたしたち県民はこの日本という国家の庇護と、アメリカの力に守られて、連綿と続いてきた祖先とのつながりを今日まで維持することができました。
一方チベットやウイグル(東トルキスタン)は、今まさに民族と文化がまるごと消滅の危機にあります。彼らが抱いているであろう、祖国を失う恐怖と喪失感をわたしたちはよく知っています。

それを鑑みたとき、先祖代々のウチナーンチュが現在も沖縄に平和に暮らしていられることは、当たり前のように思えますが、実はとても有り難いことだとわかります。このことに気づき、わたしたちは尊い使命を果たしていかなくてはいけません。
その使命とは、抑止力としての米軍基地受け入れであり、正しい歴史教育であり、他国の侵犯を断固許さないという姿勢です。

人々に愛されるわたしたちの故郷は、「守られる沖縄」から、「日本を守る沖縄」へと変化の時期を迎えているように思います。(東京都)

 


 
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