山村明義の神代のブログ 2012-07-01 を転載

日本人はなぜ政治の悪循環から抜け出せないのか

日本の政治、つまり「まつりごと」はなぜ国民から失望され、何度政権交代をしてもまともな結果を出せないのか。
その原因は、前回述べたように、戦後7年近くに及んだGHQによる「日本人の政治劣化計画」にあるが、相当程度、80年代の日本人の過ごし方にあったと言えるだろう。

当時の日本人のほとんどが浮かれていたバブルの時代を迎えた80年代最初の総理大臣は、誰であったかご存じだろうか。
「暗愚の帝王」と謳われた鈴木善幸という人物である。岩手県出身の鈴木氏は、社会党出身であった。自民党にしては極めてリベラルな性格で、日本人の「ノンポリ・リベラル」を象徴するような政治家であった。すなわち、その後続いた日本の政治は、「経済の邪魔にならなければ、総理大臣など誰でもいい」という時代を迎え、右派でも左派でもない政治思想のない政治家がこの頃から始まった。

次の総理大臣の中曽根康弘は、日本の「タカ派」だとされているが、実際にはレーガン大統領とのパイプを重視し、アメリカからの自主独立を果たすことが出来ず、この時代に日本の政治は決定的に悪化した。

まず、経済では85年のプラザ合意に当時の竹下登大蔵大臣を派遣し、アメリカの言うままに為替相場を操られる仕組みを作った。これにより、円相場は100円台前半まで落ち込み、現在では70円台でもがき苦しむ「悪の土台」を作った。当時、このプラザ合意が開催されたニューヨークのヴォルドルフ・アストリア・ホテルは、あのマッカーサーが定宿にしていたホテルなのである。この時点で中曽根康弘は、日本人がいかにGHQに痛めつけられてきたか、察するべきであった。

以後、日本経済の原動力であり根幹であった中小企業の輸出産業が徐々に力を失い、国内ではバブル経済を生み出し、外国へ進出せざるを得なくなる「産業の空洞化」を招いたのは、このプラザ合意が最大の原因なのである。
さらに中曽根康弘は、「戦後政治の総決算」と言いながら、逆に日本人の精神性をその後も容易に立ち直れないきっかけを作った。具体的には、日本の総理大臣の靖国神社参拝を、05年の小泉純一郎まで20年間不可能なものにした。中国に対する過度な遠慮と自らの浅はかで間違いに基づく「日本人意識」が、「靖国神社」を日本人から遠ざけてしまったのだ。

さらに、中曽根康弘という人物は、「中曽根裁定」という後継者指名によって、竹下登という総理大臣になりたかっただけの何の政治思想もない人物を、総理大臣に据えてしまった。

その後、竹下登が消費税3%と引き替えにリクルート事件で失脚するが、その後日本の総理大臣は、約1年間で平均一人の総理大臣がすぐに交代するという悪循環に陥った。

もうそろそろ日本人は気づくべきである。この80年代にこそ、GHQが日本人全員を劣化させるような仕組みの総決算を仕掛け、「失われた20年」をシステム化したことを。若い日本人世代は、この当時の実感がないようだが、政治が劣化した最大の原因は、GHQの深慮遠謀に気づかず、80年代のバブルの時代に遊び惚け、「政治など重視しなくても、日本は経済だけしっかりしていればいい」「経済は一流、政治は三流」などと勘違いした。結果的に日本は、その後日本人がどうもがいても、政治、経済、精神性の三本柱を失う「悪のシステム」から抜け出せない大いなる罠にはまってしまったのである。

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