2012/01/11付の 【石 平 せきへい】中国 体制内「政策論争」の行方 で著者の石平氏は重慶市の薄煕来党委員会書記と広東省の汪洋党委員会書記の熾烈な「政策論争」の内幕とその両名による共産党内部への影響について書かれていた。
秋の党大会人事でこの2人が最高指導部入りを果たせるかどうかが大きな焦点となるのだが、逆にいえば、もしそのどちらかが昇進人事から外された場合、それもまた、中国の今後の行方を占うための判断材料の一つとなろう。
とにかく2012年、2人の地方幹部の「政策論争」の行方は中国の今後の方向性を見る上で重要な指標となりそうだが、彼らのどちらも結果的には、この国の経済の衰退と体制の破綻を食い止めることができないだろうというのが筆者の私自身の判断である。
と述べられていたが、一方の重慶の薄煕来が失脚した。
そして今、石平氏がその一部始終を解説する。
石平(せきへい)のチャイナウォッチ 2012/03/16 を転載
「薄煕来転落」の一部始終
重慶市前共産党書記の薄煕来が3月15日に解任されたニュースが多方面に衝撃を与えているようだが、今までの経緯からすれば、彼の転落はむしろ「そうなるべくしてそうなった」ものである。
大連市長、国務院商業部長(通産大臣)を歴任してきた薄煕来は本来、いわば「太子党」の一人であり、一時には江沢民派の後押しも受けていた。
しかし今から5年前の2007年、党の十七回大会開催に向けてその5年後(すなわち現在)の「ポスト胡錦涛」の共産党指導部の後継者人事が討議された際、温家宝首相から特に嫌われて胡錦涛総書記にも睨まれた彼は、結局後継人事の候補者名簿から外されて重慶へと飛ばされた。その代わりに、江沢民派と胡錦涛派の妥協の結果、江沢民派の押す習近平と、胡錦涛派の押す李克強はそれぞれ、次期総書記候補と次期首相候補におさまった。
後継者人事の最初レースで敗退した薄煕来は当然、そのまま身を引くつもりは毛頭ない。たとえば次期総書記・首相になれなくても、野心家の彼はやはり、次の党大会で決定される政治局常務委員となって次期最高指導部入りを目指さなければならない。そのためには、重慶市党書記の在任中に、世間をあっと言わせるほどの突出した実績を作らなければならなかったのである。
薄煕来はその実績作りの「目玉商品」として力を入れたのはすなわち「黒社会撲滅運動」の展開である。重慶の共産党幹部(特に公安幹部)と「黒社会」との癒着構造にメスを入れ、有力者たちを次から次へと摘発して葬っていった。重慶市の元公安局長の文強が摘発されて死刑に処されたのはその端なる一例である。
この「撲滅運動」は庶民たちからの喝采を博して、重慶のみならずにして全国における「薄煕来人気」を高めることになったが、その反面、多くの権力者たちの恨みも買った。
重慶市前任の党書記は、現在の広東省党書記の汪洋という人だが、共産主義青年団出身幹部の彼は胡錦涛総書記のもっとも可愛がっている子飼い幹部の一人である。薄煕来の「黒社会撲滅運動」は結局、汪洋が重慶市党書記在任中に抜擢した幹部の多くを葬り去ったことになっているから、中国の権力の世界ではそれは当然、汪洋と胡錦涛にたいする敵対行為だと見なされている。
一方、「黒社会撲滅運動」は江沢民派の不興も買った。
というのも、上海を始めとする多くの大都会で、いわば「黒社会」も含めた民間の利益集団と政治権力との癒着構造(すなわち利権構造)を作り上げているのはまさに江沢民一派であるから、彼らからすれば、薄煕来のやり方はまさに自分たちに弓を向けてきたようなものである。
その結果、薄煕来は結局、胡錦涛派からも江沢民派からも見放された。というよりもむしろ、胡錦涛派にも江沢民派にも彼を葬り去らなければならない理由が出来た。
しかも、派閥間の利害関係を超えて、中央指導部全体は薄煕来を許せなくなる理由もあった。というのも、彼が重慶で展開していた政治運動のすべては、要するにポピュリズム政治を展開して民衆の歓心を買い、今度は民衆からの支持をバックにして中央に圧力をかけ、それをもって自らの政治局常務委員入りを果たそうとしたものであるが、中央の目から見れば、それは間違いなく一種の「下剋上」となるのであろう。
もし全国の地方幹部は彼に倣って同じようなことをやってしまえば、中央の統制は効かなくなり、政権が空中分解してしまいかねない。だから、薄煕来は結局、中央指導部全体にとっての「厄介者」となったのである。
しかし薄煕来には庶民的には大きな人気があり、大きな勢力を持つ「太子党」の一員でもあるから、江沢民派にしても胡錦涛派にしても、あるいる中央指導部にしても彼をやっつけるのに人の目を欺くような巧妙な方法を講じなければならない。
そこで、薄煕来を葬り去ろうとする勢力はまず、彼の側近幹部として「黒社会撲滅運動」の陣頭指揮をとった重慶市元副市長・公安局長の王立軍に狙いを定め、王立軍への「汚職調査」を始めた。
しかしそのとき、本来なら王立軍を守らなければならない立場の薄煕来はなんと、先手を打って王立軍の公安局長職を解任して、自己保身のために王立軍を切り捨てた。そして、さすがの薄煕来の腹黒さに戦慄した王立軍のとった行動とはすなわち、変装して薄煕来の監視から逃れて、成都にある米国領事館に逃げ込んだことである。
王立軍は米国領事館に逃げ込んだことの意味は、すなわち米国政府から命の保証を取り付けることだったが、その見返りとして、彼は当然、米国政府に中国共産党内の多くの機密を明け渡したのであろう。その結果、おそらく米国政府と中国政府の間で彼の命を保証するための「密約」が交わされた後、彼は「自らの意向にしたがって」、米国領事館から出たわけである。
領事館から出た後の王立軍は直ちに中国の国家安全部によって北京へと連行されて取り調べを受けるようになったが、この前代未聞の衝撃事件の発生によって窮地に立たされたのはいうまでもなく王立軍の上司であり、彼を抜擢した張本人の薄煕来である。そのままでは、最高指導部入りの夢が破れてしまうだけでなく、政治生命さえ断たされてしまう危険性もある。
そこで彼の取った保身のための政治行動はすなわち、胡錦涛総書記への全面降伏である。
地元新聞の「重慶日報」が2月26日に伝えたところによると、2月24日、彼は重慶市共産党常務委員会議を開き、重慶市の今後の発展に関する「3.14綱領」の実施を正式に決めたという。
その「3.14綱領」とは何かというと、実は今から5年前の2007年3月14日、五年一度の全国人民大会が北京で開かれた時、共産党総書記の胡錦涛は大会参加の重慶市代表団の会議に出席して講話し、重慶市の「経済・社会の発展」にかんして一連の「重要指示」を行ったが、この講話の内容は今、薄煕来氏主宰の重慶市共産党常務委員会議において「3.14綱領」としてまとめられてその全面的実施が決められたという。
しかしよく考えてみれば、それはいかにも奇妙なことである。例の「胡錦涛講話」が行われたのは今から五年前の2007年3月のことである。そして同じ2007年の12月には、薄煕来は重慶市の共産党書記に任命されて、それ以来5年間、ずっと重慶市のトップであり続ける。しかしこの5年間、薄煕来は一度もこの「「胡錦涛講話」」を取り上げてそれを「綱領」だと名付けたりその実施を呼びかけたりしたことはない。彼はむしろ、それをずっと無視してきたはずである。
それなのに今になって、薄煕来は突如この5年前の講話を掘り出して、「重慶市発展の指針となる総綱領」だと褒め称えた上で、今さらのようにその「全面的実施」を正式決定してしまうとは、まさに滑稽に思われるほどの政治的演出というしかないが、その目的は、胡錦涛総書記に政治的忠誠心を示し、胡錦涛派への全面降伏の意思を示すことによって自らの生き残りを計ることであるとはいうまでもない。政治闘争に敗れた彼は結局、必死になって胡錦涛総書に命乞いをするしかなかったのである。
その流れの中で、中央指導部から下された決断はすなわち3月15日の「電撃解任」である。
この一挙によって、薄煕来の次期最高指導部入りは完全に阻止されたのと同時に、その政治生命もほぼ断たされたのであろう。薄煕来はそれで「おしまい」なのである。
ただし、胡錦涛総書への命乞いはまったく効果がなかったわけでもない。彼の解任を決めた共産党中央の発表の文面を見ていると、彼のことを「薄煕来同志」と呼んでおり、しかも彼のもう一つの肩書きである「政治局委員」の資格は依然として保留されている。つまり胡錦涛派にしても江沢民派にしても、薄煕来の最高指導部入りを阻止できればそれで良いのであって、彼を徹底的に追い詰めていくつもりはないように見える。
おそらく将来において、彼は何らかの実権のない名誉職に就かされてそのまま干されていくことになるのであろう。党内きっての野心家の薄煕来はまさにその野心の大きさが故に、共産党内の政治闘争の哀れな失敗者の一人となったわけである。
( 石 平 )
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