日本人の「精神世界」「美学」など、さすが神道を説く山村先生のお話しに、心を打たれる思いだ。
日本人の終わりの美学と小沢一郎
日本人には「終わりの作法」というものがある。能や歌舞伎、狂言などもそうであるが、自分の我欲や個人の思いを捨て、自らの身を「公」である世の中や、自然に最期には委ねようとする日本独自の精神性がそこにある。
自らの生命を「公」の監視の下に絶ってしまう「切腹」もまた同じだ。切腹は、周囲の人間の暗黙の同意の下、自ら責任を取って生命の終わりを決する「自決」の一手段である。
それゆえ「切腹」には、周囲による「介錯」が必要で、その人の終わりを見届ける役回りとそのための美学が暗黙のうちに存在する。
つまり、本来の日本の伝統や日本人の精神性には、「終わりの美学」というものがあり、そこに「作法」が成り立っていた。だからこそ「切腹」は、誰にも見届けられず、作法無く自ら命を絶つ方法の現代の「自殺」とは、まったく概念的に異なるものなのである。
何の話かというと、組織としても個人個人の生き方としても、まさに終焉を迎えようとしている民主党の話である。民主党の国会議員ひとりひとりにいま、戦後の日本人の生き方と日本の組織の「終わり」というものが問われているからである。消費増税法案をめぐって、彼らのマニフェストが最終的に国民との約束とは違う「公約違反」だっただけではない。彼らには日本人の模範となる生き方や、日本を率先する「組織人」としての「恥の概念」という美学がまったくなかった。
小沢一郎が良い例である。離婚を突きつけられた自分の元夫人から「放射能が怖くて逃げた」と指摘されているにもかかわらず、彼は「あの話は半分はデタラメだ」と側近に吹聴しているという。だが、「自分の保身の為に国政を動かそうとするこんな男を国政に送る手伝いをしてきたことを深く恥じております」という元夫人の言葉は、小沢一郎のみならず、日本人にとっても深刻である。
つまり、戦後の日本人は「終わりの美学」や「作法」、その土台となる「恥の概念」すら失ってしまったのだ。どんな戦いにおいても「逃げるだけでいい」「逃げることは恥ずかしくない」と喧伝し、自らの生き方にまったく責任を持たない生き方や死に様が蔑まれる。GHQに洗脳された日本の戦後は、そんな風潮が跋扈していた。「自決」とは、個人の価値観であり、その価値観を重要視する私も、一般の人に「責任を取って切腹しろ」とまでは言わないが、このままでは日本はどうやっても立ち行かないことは間違いない。
結局、もうそのような「個人の権利」だけが大事で、「自分が困ったら責任から逃げればいい」という戦後の間違った観念に基づく時代は、終わったのだ。福島第一原発の放射能事故が解決せず、東北地方のガレキを受け入れるだけで、批判をし、文句を言う。自らの身を投げ出せない者だけが得をするような国家になり果て、この未曾有の危機を迎えている日本を、どう立て直すというのだろうか。