ブログ ねずさんの ひとりごと より
「アイデンティティ」 を転載
最近はカタカタ英語が多くなってきて、何やら意味不明な用語としてカタカナ文字が使われる傾向があるようです。
カタカナ英語にすると意味がわからず、わからないからお経みたいなもので、なにやら「ありがたいもの」という認識が生まれるのかもしれません。
明治の人たちは偉かった。
英語のソサエティを、「社会」と訳したのは、やまと新聞の創業者の福地源一郎だけれど、こうした形而上学的な言葉を、いかなる日本語に訳すかということも、ある意味、知性の現れなのかもしれません。
今回テーマのアイデンティティ(identity)も、イマイチ意味がつかみにくいカタカナ英語です。
アイデンティティは、近来の学者さんによると、「自己同一性」と訳すのだそうですが、申し訳ないが、これでは意味がさっぱりわからない。
むしろ、なにやら異常心理学の分野に属する心理学用語みたいな感じです。
そもそも「アイデンティティ」は、米国の心理学者、精神分析家エリック・エリクソン(Erik H.Erikson 1902-1994)によって提唱された理論です。
その内容は、以下の通りです。
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アイデンティティとは「自分は何者なのかを知ること」であり、自らのルーツにある誇りある伝統と文化を知った若者、つまり自らのアイデンティティを確立した若者は、自らをその誇れる大いなる存在に同化させようとする。
その結果、若者たちは健全な精神を獲得し、「公」を大切にし、社会や国家に対して健康な忠義心を持つようになる。
そういう若者達によって担われる社会は、きわめて健全性の高い社会となり、高邁な精神文化を持った国家を形成することができる。
逆に青年期にアイデンティティが正常に獲得されないと、自分のやるべき事が分からないまま日々を過ごしたり、時に熱狂的なイデオロギー(カルト宗教や非行など)に傾いてしまう。
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つまり、ひらたくいえばアイデンティティとは「自己帰属」であり、もっと簡単にいえば「身元」ということができます。
私達は日本人です。
その日本人が、日本人とは何か、我々の祖先たちは何を考え、何を理想としてきたのか、そして日本は、日本の長い歴史の中で、何を求めて国づくりをしてきたのか、それを知ることが、アイデンティティを得るということです。
つまり、簡単にいえば、
私達が私達日本人の身元を知ることが、アイデンティティを確立するこということです。
その身元がわからないとどうなるか。
自らの身元を得ようとして、よその文化を自らの身元としようとします。
典型的なものが、戦後の歴史教育における階級闘争史観です。
そもそも階級闘争などというものは、日本には存在しなかったものを、いたずらにマルクスという酔っぱらいが唱えた階級闘争という概念で、日本の歴史を計ろうとする。
だから間違える。
いい例が、百姓一揆です。
百姓一揆と聞くと、いまの日本人に聞けば、100人中99人までが、ムシロ旗を立てて商家や代官所を襲う打ち壊しのようなものを想像するようです。
事実はまるで違う。
百姓一揆なるものは、江戸日本においても、ほぼ毎週のように全国どこかで行われていたものです。
ムシロ旗を立てていたのは、事実です。
けれど、それが暴力事件にまで至ることは、まずなかった。
江戸300年の歴史の中で、打ち壊しがあったのは、ほんの数えるほどのことです。
では、実際の一揆は、どのようなものであったのか。
それとまったく同じものを、私達は、日常的に目にすることができます。
そうです。
街宣デモです。
たとえば昨今の保守系街宣デモでは、みんな日の丸の旗を手にしています。
あれが、ムシロに変わっただけ。
それがかつての百姓一揆です。
いまも昔も、一揆やデモに参加する人たちは、そのデモで暴力事件を起こそうなどと、まったく考えていません。
むしろ、暴力を振るわず、整然と行進し、終わればみんなで一杯飲んで、互いの親交を温める。
考えてみてください。
田舎で農家を営んでいる実家の兄ちゃんや義理の妹たちが、革マル派の暴力沙汰のような一揆をするような軽率な人たちなのでしょうか。
階級闘争史観では、日本の人口の9割に及ぶ農家が生産した米を、人口のわずか5%に満たない武士が五公五民や、四公六民という高い税率で巻き上げた、だから農民はいつも貧しかったと教えます。
馬鹿なことを言わないでいただきたい。
西欧の貴族や王族と日本はまるで異なるのです。
あたりまえのことですが、人間は食い物のある分しか、人口を維持できません。
3000万の人口に対し、食料が2000万人分しか生産できないなら、足らない分の食い物を海外から調達するのでなければ、1000万人は死んでしまいます。
しかも江戸日本は、鎖国していたのです。
海外からの食料調達はありません。
ということは、国内で生産された食料だけで、日本中の人は生きていた。
人口が3000万人ということは、3000万人分の食料しか生産されていなかったということです。
その3000万人分の食料のうち、半分を、人口の5%(150万人)が食べちまったら、残りの人たちは、飢えて死んでしまいます。
論理的にありえないのです。
そもそも、年貢のもとになるのは、言うまでもなく「検地」です。
検地台帳は、耕地の広さはもちろん、土地の質、陽当たりの善し悪しなどまで克明に記録され、一定区画の土地からどれだけの収穫が見込めるかが算出されています。
「検地」に基づいて年貢(税)が取り立てられます。
当然、この「検地」は、毎年調査されていると思いきや、なんと江戸270年を平均して、ひとつの村につき「2回」しか行われていない。
しかも新田開発したところは、開発時点で「検地」が行われているけれど、たとえば幕府直轄地などは、豊臣秀吉の「太閤検地」以来、検地は行われていません。
これがどういうことかというと、今でいうなら、「会計監査」が270年間、まったく行われなかったということです。
平和だった江戸時代に、農業技術は非常な進歩を遂げ、江戸中期以降の1ヘクタールあたりの米の収穫量は、いまとほとんど変わりがないところまで進歩しています。
それだけでなく、養蚕や、小麦、大豆、大根などの他の生産物の収穫も、進んだ。
いまでいったら、明治初期の税率で、いまの所得を計るようなものです。
太閤検地の頃に定めた納税額で、いまの税金を納める。
となれば、実際には、脱税のし放題です。
まじめなお代官は、これではいかんと検地を再施行しようとします。
すると農民は既得権を侵害されることになるから力一杯抵抗する。
まじめなお代官を「悪代官」と呼んでそしる。
お代官は、派遣された官僚ですから、民から不評が出ると、更迭の対象となる。
こうしてまじめなお代官(悪代官)がいなくなると、民ははたまた脱税のし放題となる、というわけです。
おかげで、江戸期の農村は、所得水準・教育水準とも非常に高く、農民出身の学者もたくさん出現しているし、武芸に秀でる者もいた。
それだけ、経済的に余裕があったのです。
新撰組の近藤勇も、土方歳三も、沖田総司も、百姓の出ですが、武家以上に剣術に励めるだけの経済力があった。
もちろん、現代に較べて豊かであったかどうかは別問題です。
凶作が続けば餓死者も出るし、当時の住居にエアコンが完備してたわけではないです。
しかし、江戸初期には入口は「むしろ」だった農家も、江戸中期にはちゃんとした扉ができ、多くの農家が家内で養蚕ができるほどの大きな家を建てていた。
そしてもうひとつ大事なことは、年貢は「土地にかかる税」であって、人にかかる税ではない、ということです。
< 次号に続く >
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