鍛冶俊樹の軍事ジャーナル 第115号 を転載

戦後秩序は終わった

エジプトで騒乱が拡大している。首都カイロが炎上している。日本から遠く離れた土地で起こっている動乱は実は、日本を含む戦後秩序の終焉を象徴している。

中国が尖閣侵略の根拠として主張するのがカイロ宣言である。第2次世界大戦中の1943年に米英中3国が対日戦争方針を定めたものだが、もとより国際条約ではなく、また条約は最後に結ばれたものが有効であるから、戦後条約が締結された後にそれ以前の宣言が有効であるわけはない。

つまり中国は戦勝国・中国、敗戦国・日本という戦後秩序の維持を主張しているように見せかけながら、カイロ宣言を持ち出すことにより戦後秩序を否定していることになる。更にこの宣言に基づき尖閣侵入を繰り返すのは戦後秩序を破壊する行為に他ならない。

さてカイロ宣言は当時、ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相と蒋介石中華民国総統がカイロに集まって発した宣言であるが、そもそもその場所がなぜエジプトのカイロなのか?

それは当時、エジプトが英国の植民地でありスエズ運河を抱える大英帝国の要衝であったからだ。第1次世界大戦も第2次世界大戦もドイツからスエズ運河を守るための戦争だったと言っても過言ではない。ドイツのロンメル軍団からエジプトを守るために英国は米国から莫大な支援を得ており、今後もその支援を継続させるためにチャーチルはルーズベルトをカイロに呼び出したのである。

米国はもともと大英帝国に反旗を翻して独立した国であり、その国是は反帝国主義である民主主義である。その民主主義の米国が英国の帝国主義を支援していたのである。米国の民主主義は完全なジレンマに陥っており、しかもそのジレンマの継続を英国は要求していた。

米国内では黒人も徴兵されながら、人種差別されることへの不満が渦巻き黒人暴動が起こり、黒人の中には有色人種である日本人のアングロサクソンへの挑戦に共感する向きも少なくなかった。
米国の民主主義が完全に行き詰っていた訳だが、その1943年すなわち昭和18年11月、日本は大東亜会議を開催し植民地の解放を宣言した。日本が植民地の解放を宣言して英国と戦い、米国が英国の植民地を守るために米国民を徴兵している。この矛盾を糊塗するための天下の大芝居がカイロ宣言だった。

蒋介石を呼び出して日本の圧制からの解放を米英に嘆願するポーズを取らせることにより、米英が民主主義勢力であり日本が帝国主義勢力だと印象付ける宣伝工作である。女房の宋美齢の贅沢で金欠病になっていた蒋介石はお金が貰えると聞いてカイロまで、はるばるやって来た。ところがこのカイロ宣言には蒋介石の署名がない。どうやら署名をせずに金を持ち逃げしたらしい。さすが中国人、やることが違う。

さてそのエジプトは戦後、英国から独立したものの結局、米国の覇権下に入り、ムバラク政権は米軍の支援を受けながら30年間エジプトを安定させた。ところが「30年にわたる長期政権は民主的とは言えない」と突然米国が言い出し、ムバラク政権はあえなく崩壊、そこで選挙をやったら民主主義を否定するイスラム原理主義者であるモルシーが大統領に選ばれてしまった。

「反民主主義の政権を認めるわけにはいかない」と国民の間に反発が起こり、軍も民主主義を守るべくモルシーを追放したが、米国は「クーデタは民主的とは言えない」とまた内政干渉をしたため、イスラム原理主義者が勢いづいてエジプトは完全に安定を失い、カイロが炎上するに至ったのである。

エジプト軍はこの騒乱の最中、ヨーロッパとアジアを結ぶ大動脈であるスエズ運河の防衛を強化している。スエズ運河が閉鎖されればヨーロッパ経済は崩壊することをイスラム原理主義者はよく知っている。だから欧米の民主主義を守るためにエジプト軍はスエズ運河を守っているのだが、その「エジプト軍が民主的でない」との理由で米軍が支援を停止すれば、エジプト軍は瞬時に崩壊する。戦後秩序はカイロに始まってカイロに終わったのである。

 


軍事ジャーナリスト 鍛冶俊樹(かじとしき)

鍛冶俊樹

1957年広島県生まれ、1983年埼玉大学教養学部卒業後、航空自衛隊に幹部候補生として入隊、主に情報通信関係の将校として11年間勤務。1994年文筆活動に転換、翌年、論文「日本の安全保障の現在と未来」が第1回読売論壇新人賞佳作入選。現在、日経ビジネス・オンライン、日本文化チャンネル桜等、幅広く活動。

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