真悟の時事通信 平成24年 4月26日(木) を転載

台湾の山の民を巡る

昭和二十年八月、関東軍が武装解除したあとのソビエト兵にあらゆる陵辱をうけるがままであった満州における百余万の民間人同胞の、祖国帰還に道を開いた影の功労者、帝国陸軍特務機関、門脇朝秀さん(数え百歳)のお伴をして、十日間の台湾東海岸の山の民を巡る旅を終え、先ほど大阪堺に帰還した(十六日~二十五日)。

この旅の途中で、盛んに日本のマスコミから石原慎太郎さんがワシントンで公表した尖閣諸島の東京都による買収に関する取材を受けたが、「民主党政府の反日・売国・親中的脆弱性と中共の強権的侵略姿勢という双方の正確な状況認識を前提にした絶妙にしてあっぱれな発表である」と一貫して回答した。
しかも接した台湾人は皆、尖閣は日本のものだと思っている。「尖閣は中国のものだと思っている台湾人は一人もいないよ」と台湾の人たちは私に言った。私は台湾人に、「尖閣諸島周辺の漁場は日本人の漁場だ。そして、その日本人のなかに台湾人も含まれる。日台は力を合わせて中国の侵略に対抗しよう」と言った。

さて、台湾東海岸の山の民とは、先の大戦で高砂義勇兵として帝国陸海軍の軍人軍属として戦った人々のことだ
彼等は、南太平洋の島々の密林そしてニューギニアの密林で、忠勇義烈、剽悍にして勇猛に闘った。
アメリカ軍が台湾を回避して上陸せず沖縄に上陸してきたのは台湾の団結と南北に繋がる富士山より高い三千メートルを超える山々に勇猛な高砂族がいたことによる。

戦争で生き残った高砂義勇兵の人々は、日本敗戦後、ひっそりと郷里の山に帰って生きてきた。
その間、台湾には蒋介石の中国国民党軍が進駐し、三十八年間という世界史上最長の戒厳令をひいていた。
その戒厳令は、日本時代と日本的なものを根絶やしにするためのもので、日本を語る者を抹殺する「白色テロ」の期間であった。従って彼等はひっそりと生きてきたのだ。その中で、一人、門脇朝秀さんは彼等と接触を保ってきた。さすがに元特務機関だ。そして、この度の旅となった。

生き残りひっそりと生きてきた高砂義勇兵の方々は、皆八十歳代後半になっていた。
彼等は皆、日本名を名乗り日本語で語った。そして、門脇さんと手を握り肩を抱き合って泣いた。それを見守る我々も泣いた。

その後、彼等は日本の軍歌を歌った。
「海ゆかば水くかばね
山ゆかば草むすかばね・・・」と。

彼等元兵士達が、門脇さんに会って、堰を切ったように「日本に還る」姿を見て私は、皇后陛下の次の平成十年の御歌を思った。それは、イギリスを訪問されたとき、日本軍の元捕虜であったイギリス兵達が尻を向けて両陛下を迎えるという非礼を見て、皇后陛下が読まれたもので、イギリス軍の捕虜となり命を奪われ、また虐待を受けながら、敗戦国故に語ることなく生きている元日本兵のことを思われた歌である。
「語らざる悲しみもてる人あらむ
母国は青き梅實ころ」

今までの私は、「語らざる悲しみもてる人」は地理的に日本にだけいると思っていた。
しかし、三十八年の戒厳令を経て真の「語らざる悲しみもてる人」は台湾の山にいる。このことを、元高砂義勇兵に会って分かった。日本人は、このことを忘れてはならない。高砂義勇兵のことを忘れて日本に未来はない。

詳しくは追々語りたいと思うが、これが最後だと度々言われる百歳の門脇朝秀さんに導かれた台湾東海岸沿いの山の旅は、今までのどの旅よりも感慨深い旅となった。
何故なら、この度の旅は、
日本を発見する旅であり
日本を確認する旅であり
日本を愛し誇りに思う旅であった
からである。

 
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