真悟の時事通信 (平成24年1月25日号) を転載

トアン・中島慎三?さん、また会おう

昨年秋に出版された「別冊正論」Extra、16「幕末維新、大戦、大震災・・・苦難の中で光り輝く、我が子に語りたい、知られざる、日本人の物語」の特集に、日本会議の江崎道朗さんが、「ASEAN結成を支えた熱血の民間外交官、中島慎三郎」を書かれた。

台湾の八田與一や根本博そして西郷隆盛と並んで「我が子に語りたい日本人」として中島慎三郎の名を見て、本人のトアン中島、嬉しそうにニヤリと笑っだろうなー、ご無沙汰だが、お元気だろうなー、と思った(トアンとは、おじさん、オッチャンという意味のインドネシア語)。
思った通り中島さんは喜んだ。昨年末、正論の上島さんに聞いた。中島さん、喜んだ、と。
そして、さらに聞いた、喜んで亡くなった、と。

マレーの虎、山下奉文閣下率いる山下兵団の兵士、
中島慎三郎、
平成二十三年十一月二十二日、帰天。享年九十二歳。

そこで私は、中島さんと行動を共にしたインドネシアの日々を中心にして、正々堂々たる日本人の物語を記しておきたい。
中島さんと行動を共にしていると、実戦経験のある兵隊とはこういうものかと実感することがよくあった。実戦経験とは大変なことなんだと思う。
中島さんではないが、サイパンで実戦を経てきたある八十歳を超えた人が私に言った。
「若い奴と、喧嘩したら負ける。しかし、殺し合いやったら必ず勝つ」

インドネシアのスハルト大統領退陣の翌日、前日には四千箇所で放火のあった煙の漂うジャカルタ市内を中島さんと歩いた。
すると、銃声らしき音がした。中島さんは、僕に言った。
「大丈夫、ここには届かない」
日本大使館のあるタムリン通りに来ると、大勢の兵士が手榴弾をぶら下げて腰を下ろして休憩していた。見ると、銃を薪のように積み上げている。
僕が、「あれでも兵隊なんだろうか」と言うと、中島さんは即座に「あれは、中学生の遠足」と言った。

インドネシアではなく東京でのことだが。防衛大学校の生徒達が、靖国神社に参拝するとき、以前は横須賀から歩いてきたが、この頃は歩かないらしい。
ある人が、横須賀からは遠いからですよ、と言うと、中島さんは、「近いよー、僕たちは山下閣下と共に、マレー半島を一挙に千キロ駆け抜けたんだ」と言った。
日本会議か何かの集会で、ある財界の大物が挨拶していた。
中島さんは、「だめだよあんなの」と言った。
僕が「どうして」と尋ねると、
「負け戦の兵隊だから」と言う。
「へー、負け戦の兵隊は駄目ですか」、
「一度、負けた兵隊は使いものになりません。そういうもんです。僕たち、山下兵団とジャワ駐屯軍は、勝ち戦だけで、終戦まで負けたことは一度もありません」
その財界の人は、ビルマ戦線で戦った人だった。
(このこと、一度でも中共の圧力に屈服した政治家にも言える。
靖国神社参拝を中共に気兼ねして止めた政治家は、負け戦の兵隊と同じだ。一度、シッポを股に巻いた犬と同じだ。)

中島さんは、戦時中、マレー半島を南下してジャワ島に至り、ジャワ駐屯軍に属してインドネシア語を使いこなすことができた。そして、インドネシア独立の英雄達や今村均閣下、また、スカルノとハッタの独立宣言に決定的な影響を与えた宮本参謀を目の当たりに見ていた。そして、その繋がりを最後までずーと維持していて、宮本参謀とは、時々東京の私の事務所をお訪ね頂いた。
インドネシアでは、中島さんは、戦時中の感覚に直ぐ戻る。
通訳をしてくれたが、インドネシア海軍の参謀長と会ったとき、軍服を着た参謀長に対する言葉使いは、完全に将軍に対する兵隊のもので、大声で「ハイ」、「そうであります」と言う具合だった。
戦後も日本に戻らず、インドネシア独立のために戦った拓殖大学出身の帝国陸軍少尉であったサトリア石井氏にジャカルタ市内で会った。サトリアとはインドネシア語で武士という意味。
長い時間、話し合った後に、車で去ってゆくサイトア石井氏の姿を見送っていた中島さんは、車の座席を拳で二回叩いた。
何も言わなかったが、中島さんは、インドネシア独立のために青春を捧げ、祖国日本からは忘れ去られた戦友の人生を惜しむ思いで一杯だったのだろうか。
それとも、自分も愛するインドネシアの為に、何故、サトリア石井のように日本に帰らず踏み留まらなかったのか、と悔やんだのだろうか。
サトリア石井さんは、その後、インドネシア独立の英雄達が埋葬されているカリバタ英雄墓地に埋葬された。
中島さんが、同志として篤い友情で結ばれていた、9・30事件の英雄、アリ・ムルトポ中佐もカリバタ英雄墓地に葬られている。中島さんも満足していると思う。

最後に、スハルト退陣の際、中島さんとジャカルタに行った思い出を記したい。
成田からデンパサール経由ジャカルタ行きの日航機は、乗務員の他、客は中島さんと私とデンパサールで降りた人の三人だけだった。
離陸してから二時間くらいして、機長が、機内放送で、ただいまスハルトが退陣を表明しましたと告げた。
午後三時頃、ジャカルタに着いた。空港は、照明が点灯されておらず、ロウソクの火のようなどんよりした明かりしかなかった。薄暗い長い空港の廊下を歩いていくと向こうから二人の空港職員と思われる娘さんが歩いてきた。
中島さんは、早速、スハルトが退陣してどう思う、と聞いた。彼女たちは、「セナン、セナン、スカリ」と答えた。「嬉しい、ほんとうに嬉しい、と言っているよ」と中島さんが僕に言う。
そして、彼女たちに言っていた。
「僕たち、日本から来たが、お嬢さん達が嬉しそうなので、僕たちも嬉しいよ」

空港の外には、中島さんのインドネシア人の同志が車で待っていた。
中島さんは、乗り込むと、「国会議事堂を見に行こう」と言う。道中は、火災の煙が漂っていた。
議事堂に着くと、議事堂は学生がインドネシアの国旗を打ち立てて占拠し、インドネシア独立の歌を歌っていた。日本で言うならば、学生が日の丸を掲げて「愛国行進曲」を合唱しているようなものである。学生は、空港のお嬢さんと同じでスハルト退陣歓迎だ。
問題は、その議事堂の外だ。まず、自動小銃を持ったおびただしい兵士が議事堂を囲んでいた。その一群の兵士の外に制服の違う兵士がぐるりと取り囲んでいた。この部隊は、戦車を出してきていた。

中島さんは、濫立するプラカードを見たり誰彼なく聞いたりして、僕にこう言った。
「あのネー、学生を囲んでいるのはスハルトの息子のプラボーの軍隊だよ。それを、ウイラントのマリーネ、海兵隊が取り囲んでいる。学生を攻撃させない為だ。あそこのプラカードに、書いてある。『マリーネは、学生を守る』と。マリーネはプラボーの軍隊を攻撃するつもりだ。」

そう言ってから、中島さんは、身軽に車止めを乗り越えてマリーネの群れを横切り、自動小銃を濫立させているプラボーの部隊の隙間を通り、議事堂の建物の学生のところまで歩いた。
八十歳代とは思えない身のこなしだった。もちろん、僕も同じように歩いた。自動小銃の間を通るとき、収穫間近のトウモロコシ畑を歩いているようだった。

こういう光景は、滅多に見られるものではない。西側の記者としては、白人は少しいたが、日本人記者は皆無だった。まして、日本大使館の人は見かけなかった。日本人記者がいなかったのは残念だった。

それから、四千件ほどの放火があって煙り漂うジャカルタの中心部に入った。
中島さんは、もう既に状況を把握していて、また平気で歩き出した。状況とは、放火されたのは皆、インドネシアの利益を独占している華僑の店だということ。ジャカルタ民衆は、華僑の店から昨日略奪した品物を返し始めたということ。
「あのネー、西村さん、おもしろいよ。インドネシア人に、何故、盗っているんだと聞いたんだそうよ、すると、みんな盗っているからと答えた。次に、何故、返しているんだ、と聞くと、みんな返しているからと答えるんだ」
スハルト退陣は、スハルトと組んでインドネシアの経済を牛耳っている華僑に対するインドネシア民衆の怨念を背景にして実現したのだった。

ここまで来る道中に道路工事の箇所があった。そこに、「HATI、HATI」(ハティ、ハティ)という標識があった。
中島さんになんて書いてあるの、と聞くと、「注意、注意」という意味だと教えてくれた。
その翌日のインドネシアの新聞の一面には、スハルトの次に大統領になるハビビの写真があったが、その写真の下に「HATI、HATI」と書いてあった。
この日の早朝、タムリン通りの日本大使館の前まで歩いた。
その道筋には、例の大勢の中学生の遠足のような自動小銃をもった兵隊がいた。
五.六名の兵隊がいる日本大使館の正面の門に来ると、門が閉まっている。ベルを押しても誰も出て来ない。
仕方がないので、その門の前から東京の外務省に電話して、今、駐インドネシア日本大使館前だが、大使館の門を開けろ、と言った。
すると直ぐ、人が出てきて門が開いた。そして、言う。「我々は、二十四時間、不眠不休で電話でやりとりしている」と。
しかし、大使館が電話交換業務だけに閉じこもってしまってどうする。こういうときこそ、外にいる多くの在留邦人が、何かあれば、直ぐに大使館の中に入れるような体制でいなければならないのではないか。
大使館の中の大使の部屋に通されたが、その壁には「大道通長安」と言う書が掲げられていた。
外では、インドネシア民衆に四千の華僑の店が襲撃されているが、日本大使館の中は「大道は長安に通ず」とは、さすが日本大使館、恐れ入った。
・・・なー、トアン。

トアン・中島慎三郎さん、歳は違うが、僕を戦友のように扱ってくれて深謝している。
中島さんは何時も、アセアン、そして、広大なアジアのイスラム圏を視野に入れた外交を如何に展開するかを考えていた。
即ち、中島さんは、民間外交官の域を遙かに超えた貴重な国家戦略の持ち主だった。
その戦略を共にする同志として、僕を色々な場所に連れて行ってくれた。
中島さんは、ハリマオのような日本人だった。そして、激動の戦前戦後を、何ら変わらず、一貫して、ハリマオのように生き抜いた。そして、戦友の元に帰った。
トアン中島、また会おう。それまで、あなたの戦略を実施することに専念する。

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