■ 国際派日本人養成講座 ■■
JOG-Mag No.715 を転載
人物探訪:伊澤修二 ~ 唱歌でめざした国民国家
唱歌教育によって豊かな情操を養った国民が、元気な国家を作った。
■1.「兎追ひしかの山」
「兎追ひしかの山」で始まる『故郷 (ふるさと)』の歌を知らない人は少ないだろう。
兎追ひし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき 故郷(ふるさと)
都会生まれの人間にも、なぜか懐かしい山川の風景が浮かんでくる。
如何(いか)にいます 父母
恙(つつが)なしや 友がき
雨に風に つけても
思ひ出(い)づる 故郷
2番の歌詞では、その故郷にいる父母や友がきを偲ぶ。
志(こころざし)を はたして
いつの日にか 帰らん
山は青き 故郷
水は清き 故郷
主人公は志を抱いて故郷を離れたのである。いつの日か、その志を果たして、故郷とそこにいる父母、友がきのもとに帰ろうと、学問や仕事に励む若者の姿が浮かんでくる。
この歌を歌う小学生たちは、いつかは自分も志のために故郷を後にしなければならないと心定め、だからこそ目の前の山川、父母、友がきをより一層、愛おしむ気持ちを育てたであろう。近代日本人の情操を育てた名曲である。
■2.唱歌教育の創始者・伊澤修二
『故郷』は大正3(1914)年、尋常小学唱歌の6学年用として作られたというから、もう100年近くになる。戦前に文部省が教育用に作成した多くの唱歌には、「春の小川はさらさら流る」で始まる『春の小川』、「菜の花畠に入日薄れ」の『朧月夜』など、現代でも歌い継がれている名曲が少なくない。
文部省唱歌は、当時の一流の詩人や作曲家が名前を隠して創作したものであるから、現代にも残る名曲が多いのも当然と言えば当然なのだ。
学校教育の中にこのような唱歌を取り入れることで、子どもたちの健全な情操を育むことを目指したのは、実に深い見識であると言わざるを得ない。
この唱歌による教育を創始したのが、明治政府にあって教育行政の中心を司った伊澤修二であった。
■3.「唱歌遊戯」
伊澤修二の唱歌教育の原点は、明治7(1874)年、20代半ばで愛知師範学校校長に抜擢された時に、自ら創案し、また文部省にも提言した「唱歌遊戯」である。
たとえば『椿』という遊技では、子供たちが「椿や椿椿の花が開いた」という歌を歌いながら、一人一人が花弁や花心となって円形を作り、椿の花が開いたり、閉じたりする様を演ずる、というものである。
文部省への提言の中で、伊澤は、唱歌遊戯が子供たちの「知覚神経」を活発にしてすること、心に感動をおこすこと、発音を正し呼吸を整えること、という3つの「益」を挙げ、これらは幼児教育上、欠かせないものだと述べている。
同時に、一人ひとりの子供が皆と一緒に声をあわせ、動きを合わせて踊ることで、自分が全員の中の一人であり、かつ各人が一緒に遊戯することで、全体として優れた表現ができる、という、「社会と個人」の関係を自覚させるものであった。
伊澤は英書を通じて19世紀前半にドイツで幼稚園を始めた幼児教育の祖フリードリッヒ・フレーベルの思想を知り、それを自分なりの工夫で実践してみせたのであった。
当時、文部省学監として雇われていたアメリカ人デビッド・モレーはこの唱歌遊戯に感服し、伊澤を文部省留学生としてアメリカに派遣することを推薦した。
■4.7音階の苦労
翌・明治8(1875)年9月、伊澤はアメリカを代表する師範学校の一つ、ボストンのブリッジウォーター師範学校に入学し、2年間の教員養成プログラムを履修することになった。
ここで伊澤は数学、化学、物理、英文法などをさしたる困難もなく履修したが、4学期すべてにわたって行われた唱歌(Vocal Music)には苦労した。
その原因は、当時の日本は5音階なのに、西洋では7音階となっていたことによる。「ファ」や「シ」の半音階は日本人にはなじみがなかった。
校長は、地球の裏側の日本から来たのだから、音楽が異なるのも当然で、唱歌は除外してやろうと言ってくれたが、伊澤は残念がって一日を泣き暮らした後、決心一つで出来ないことはあるまい、と努力を続けた。
そして音楽教育家のルーサー・メーソンの知遇を得て、週末になるとメーソンの自宅を訪問して唱歌の練習をしつつ、ともに日本人向けの唱歌教材の開発を続けた。
明治11(1878)年5月、アメリカ留学から帰ると、伊澤は教育行政に八面六臂の活躍を始める。まずは東京師範学校長、そして、みずから建言していた音楽取調掛が実現するとその御用掛となった。
早速、メーソンを音楽教師として招き、3巻の『小学唱歌集』を完成させた。その中には「蝶々 蝶々 菜の葉に止れ」で始まるおなじみの『蝶々』もあるが、これはドイツ民謡からとられたメロディーに日本語の歌詞をつけたものである。
■5.「人民」から「国民」へ
伊澤は教育の理想を、知育、徳育、体育の全人的な完成におき、その幼年教育において唱歌を活用したのだが、その「全人的」とは、あくまで家庭や郷土、国家の一員として、その発展をささえる「主体性ある国民」を意味した。
明治19(1886)年、教科書の編集を担当する文部省編輯局長として、伊澤は次のように述べている。[1,p205]
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普通教育は全国の人民をして皆その国民に足るべき資格を得せしめ以て国家たる一大機関を完成するを要旨とす。故に国家は何人を問はず、いやしくもその国内に在るものにはことごとくその機関全体の一部を成すに適すべき程度の教育、すなわち小学教育を施さざるべからず。(原文のカタカナ書き、一部の漢字をひらがな書きに改め、句読点を追加。)
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人民と国民の違いは、[1]の著者・奥中康人氏が引用している次の一節で明らかである。幕末に長崎に逗留して、勝海舟などに近代海軍教育をさずけたオランダのカッテンディーケによる観察である。
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一旦緩急の場合には、祖国防衛のために、力をあわせなければならぬという義務は、他国少なくともヨーロッパでは、いや洋の東西を問わず、至るところの国々の臣民に課せられるところであるが、どうも日本人には、その義務の観念が薄いようである。
その一例を挙げてみれば、私は或る時、長崎の一商人に、一体この町の住民は、長崎が脅かされた時に、果たして町を防衛できるかどうかと尋ねてみたが、その商人の曰く「何のそんなことは我々の知ったことではない。それは幕府のやる事なんだ」という返事だった。
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幕末の当時、清国はイギリスにアヘン戦争を仕掛けられたのだが、清国軍の兵士は民家を略奪したり、民衆も金を貰って英軍の手先となったりしていた。ここから当時、世界の大国と考えられていた清国が半植民地状態に陥っていく[a]。
日本も、この長崎商人のような、国を思うことのない「人民」ばかりであったら、清国と同様、半植民地状態に陥っていたであろう。
当時の欧米諸国の富強の原動力は、国の独立と繁栄を我が事として考える国民の存在にあった。そして日本の独立維持のためにも、主体的に国を支える国民を育てることが急務であったのである。
■6.「過ぎしいくさの 手柄を語る」
たとえば、文部省唱歌の一つ『冬の夜』2番には、そうした国民像が窺われる。
囲炉裏のはたで 縄なう父は
過ぎしいくさの 手柄を語る
居並ぶ子どもは ねむさ忘れて
耳を傾け こぶしを握る
囲炉裏火(いろりび)は とろとろ
外は吹雪(ふぶき)
初出は明治45(1912)年というから「過ぎしいくさ」とは、日露戦争のことであろう。戦後はこの部分が軍国主義的だとして「過ぎし昔の思い出語る」と改変されているとのことだが、これでは何の思い出で、子供たちが「こぶしを握る」のか意味不明となってしまう。
父の武勇伝を子供が熱心に聞き入るのは、古今東西、どこの国にも見られる家庭風景であろう。もう一つ、忘れてはならないのは、この曲の1番だ。
燈火(ともしび)近く 衣(きぬ)縫う母は
春の遊びの 楽しさ語る
居並ぶ子どもは 指を折りつつ
日数(ひかず)かぞえて 喜び勇む
囲炉裏火は とろとろ
外は吹雪
春の遊びを語る母の話に「日数かぞえて 喜び勇む」のは、これまた自然な子供の姿である。
こうした家庭から、情操豊かな、かつ国を支えようという気概を持った「国民」が育つ。彼らこそが、国家の独立を護り、豊かで幸福な国を築く。伊澤が唱歌教育を通じて目指したのは、こうした国民国家であった。
■7.「我が国語の優尚にして最も愛すべき」
伊澤は欧米の教育思想や音楽を学んだが、当時の主流であった西洋崇拝主義には陥らなかった。
明治政府で文部大臣を務めた森有礼は、日本語を廃して、英語を国語にしようと唱えた。伊澤は森の部下だった時期もあるが、それには組みせず、「我が国語の優尚にして最も愛すべき最も重んずべきものなることを」悟らせるべき、と主張している[1,p208]。
たとえば「山は青き 故郷 水は清き 故郷」は万葉以来の和歌の伝統につながる優尚なる表現であり、「囲炉裏火は とろとろ 外は吹雪」は、我が国語の愛すべき特性が表れている。
ただ当時の日本語の話し言葉は各地で様々な方言に分化していて、真の意味での「国語」、すなわち「国民のコミュニケーションのための言語」というには、不十分な状態であった点を、伊澤は認識していた。
近代国家においては、国民は同一の国語を使って、自由な意思疎通ができなければならない。全国津々浦々の小学校で、品格のある歌詞と美しいメロディーの唱歌を歌うことは、国語の確立のために、大きな役割を果たしたであろう。
■8.「忠君愛国の元気」
明治23(1890)年、明治憲法が発布された翌年、伊澤は民間の立場から国家教育社を創設し、機関雑誌『国家教育』など出版活動を通じて、教育に関する啓蒙活動を全国規模で展開した。
その設立趣旨には「忠君愛国の元気を養成煥発すべきこと」など、現在の左翼思想家から見れば、即座に「国家主義教育」と切って捨てられそうな言辞が並んでいる。
伊澤はハーバード大学で生物学も学び、当時、欧米社会で流行していた社会進化論の影響を受けた。これは生物が単細胞から進化して人間のような高等生物に進化したと同様、社会も単純な原始社会から近代国家に進化していく、という思想である。
その根底には国家を一つの生物に模し、国民をその細胞とみなす国家有機体説があった。細胞は人体の構成要素だが、各細胞が一致協力して活発に活動してこそ、人体も健康に成長する。
明治憲法で定められた天皇を元首とする近代立憲国家体制をさらに発展させるには、国民がその国家の一細胞であるというアイデンティティを持ち、国家全体のために貢献しようという気概を持たなければならない。それが伊澤の言う所の「忠君愛国の元気」であった。
この元気は、ヒトラーの親衛隊や毛沢東の紅衛兵のように、全体主義によって洗脳された歯車からは出てこないものだ。故郷の自然を愛おしみ、父母・友垣を思う深く豊かな情操から出てこなければ、その人自身に生き甲斐を与え、同時に国全体のために役立つ元気とはならない。
伊澤が創始した唱歌教育は、そうした深い情操から「忠君愛国の元気」を発揮する国民を作り、それが明治日本の躍進の原動力となったのではないか。
(文責:伊勢雅臣)
■リンク■
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 奥中康人国家と音楽 伊澤修二がめざした日本近代★★、春秋社、H20