野口政造さん(80)は、昭和30(1955)年代以降、熊本県上天草市龍ケ岳町の農協組合長として、地域ぐるみで水俣病の認定申請を出さないよう地元住民に圧力をかけていたと証言した。
当時はすでに魚が売れない状態が続いており、水俣病患者が出たということになれば壊滅的な状況に陥ると考え、地域の産業を守るために、水俣病に蓋をしてきた。男は漁業、女は農業という地域だが、漁協がなく農協が融資を一手に担っていたので、農協組合長の野口さんは地域で強い影響力を持っていた。
半世紀が過ぎた今、野口さんは「私は住民に大変な迷惑をかけた。償っていかなければならない」として、現在被害者の掘り起こし活動を進めている。
痛みや苦しみに耐えかねて命の保障を求める患者と、それを伏せて地域産業を守ろうとする人たちの極限状態の確執。互いが互いを理解しながらも戦わなければならなかった。察するにも耐え難い有様だ。高度経済成長の傷はあまりにも深く罪深い。終わることのない償いに野口さんは生涯を捧げる決意だ。私たちはこの現実に目を背けてはいけない。
くまにちコム 2010年12月14日
水俣病「申請出すな」と圧力 元農協役員が証言 を転載水俣病で不知火海一円に漁業被害の広がった昭和30(1955)年代以降、上天草市龍ケ岳町の元農協組合長が、地域ぐるみで認定申請を出さないよう地元住民に圧力をかけていたと証言した。水俣病問題で「申請を抑えられた」という証言はあったが、抑えた側の詳細な具体的証言が公になるのは初めて。
証言したのは龍ケ岳農協の当時「信用委員」で、後に組合長になった野口政造さん(80)=同町樋島。昭和34年11月、不知火海沿岸漁民がチッソ水俣工場に押し入った漁民騒動で、指導者として逮捕された樋島漁協組合長桑原勝記さん(故人)の義弟にあたる。
野口さんによると騒動後、桑原さんから家に呼び出され「樋島から水俣病は出しちゃいかんぞ」と説得された。患者が出れば、集落の漁業が風評被害で壊滅的打撃を受けるのを心配したため。樋島には既に仲買人が来なくなり、魚の売れない状態が続いていたという。
農協の信用事業で実権を持っていた野口さんは、各戸を回るごとに「言うとおりにせんなら、金は出さない」と申請の動きを出さないようにした。認定申請するなら、融資はしないという意味だったという。
樋島は龍ケ岳町の南東部の島。当時、男性は漁業、女性と子どもは農業という労働形態で、世帯のほとんどが農協と漁協の両方に加入していた。漁協には信用事業がなく、漁船購入などに必要な融資は農協が一手に担っていたという。
樋島、大道、高戸の3地区に分かれる龍ケ岳町では、大道に認定患者が2人(ともに死亡)いるが、樋島から認定患者は出ていない。
野口さんは「劇症の人たちも14、15人はいた。みんな亡くなってしまった」と証言。「私は住民に大変な迷惑をかけた。償っていかなければならない」として現在、被害者の掘り起こし活動を進めている。
水俣病事件史に詳しい富樫貞夫熊本大名誉教授は「当時の組合幹部らの口は固く、話してくれるのは極めて珍しい。認定患者のいない地域でも汚染や健康被害を受け、救済されない潜在患者が放置されようとしている現状の中、非常に重要な証言」と話している。(農孝生)