胡耀邦はなぜあれほどの親日家だったか
蒋介石は日本の軍人を一貫して敬愛し、畏怖していた
『日本人こそ知っておくべき 世界を号泣させた日本人』
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まだ五万人ほどの台湾軍人が駐屯していた時代に金門へ行ったことがある。全島が軍事要塞。あちこちに歩哨が立ち、神経が張り詰め、ぴりぴりしていた。島の裏側に潜水艦基地があり、そこも見学し、洞窟の中で食事をした。わずか三、四キロ沖合が大陸の厦門市である。双眼鏡から厦門の砲台が見えた。
それから数年して(ということは二十年前あたりか)村松剛氏と台湾へ行った折、金門へ行く予定だったが濃霧のため飛行機が飛ばなかった。
八年ほど前にまた金門へいく機会があった。
驚いた。軍人は数千人規模に減っており、緊張感はゼロに近いばかりか、厦門との間にフェリーが往来し、すっかり観光拠点化していたのだ。軍人相手のバアも、ゲーム屋も大方は店じまい、替わりにグルメの海鮮レストランが花盛りだった。そのおり金門の県知事にあうと、「近未来に金門と厦門に橋を架けて繋がる」と発言したので、また驚かされた(馬英九政権はこの橋梁プロジェクトに前向き)。
直後に今度は福建省厦門へ行った折、コロンス島から反対に双眼鏡で金門を見た。ドイツの砲台跡の戦争記念館にも大きな双眼鏡があって、ここから見ると金門を警備する台湾兵士の表情まで見えるので、またまた驚かされる。
さて。
1949年、金門の古寧頭に毛沢東は一個師団の上陸を命じた。共産軍は100隻のジャンク船で上陸作戦を展開するが、台湾軍によって殲滅され、以後、中国は台湾軍事作戦を諦めた。
ただし金門を挟んでの国共内戦の終幕版=砲撃戦は長期にわたって続けられ、石原裕次郎主演で映画にもなった。読売新聞記者が砲弾にあたって死亡する事件もおきた。古寧頭記念館へ行くと、その展示もあった。
だが当時もいまも古寧頭記念館で一言も触れられていない「事実」がある。
それはこの毛利vs陶の厳島戦争のような、敵をいちど上陸させて殲滅するという、きわどい軍事作戦を立案し、蔭で台湾軍を指導したのが日本の軍人=根本博中将であったことだ。
近年、門田隆将氏がノンフィクション(『この命、義に捧ぐ』、集英社)を書いて、ようやく人々の知るところとなった。
また蒋介石の要請に応じ、中華民国の軍隊を整備し教育し立て直すために、日本の軍人が協力を惜しまなかった。それが「白団」。
他方、林彪や膨真から口説かれて、戦後の中国空軍をたちあげたのはほかならぬ日本の航空隊である。林弥一郎以下300名は瀋陽の東南で捕虜となったが、林彪の懇請を受け、新中国誕生の陣痛期にあたると解釈し、パイロット、整備士、管制官などを養成した。いま、この記念館が訓練学校のあった黒竜江省密山市に建てられており、昨春、高山正之氏らと現地に見学に行った。当時の飛行機の実物大模型が数機飾ってあった。
さてさて、本書はこういう知られざる日本人の物語である。それも近年は誰もかたることがなかった熱烈な日本人の熱血である。
歴史家=黄文雄の眼光がするどく随所に目配りされている。
胡耀邦がなぜあれほどの親日家だったか?
それは彼が当時の日本人医師の献身的努力によって命を救われたことがあるからである。稗田憲太郎は張家口中央委学院の院長として赴任し、わずか三ヶ月後の終戦により共産軍の医師とならざるを得なかった。
当該医学院は接収され「ベチューン医学院」と改称された。ベチューンはカナダ人医師だが毛沢東に気に入られ、記念病院が作られる。稗田憲太郎は、その医学院の中心人物として「病理学、寄生虫学、組織細胞学、解剖学」などを教え、多くの医者を育てたのだ。稗田の活躍で多くの中国人が救われた。稗田は1953年に帰国し久留米大学医学部長、日本学術院会員。1971年逝去。
1984年に胡耀邦が来日して、未亡人と娘等を中国大使館のレセプションにまねいたことがある。そのとき胡耀邦がこう言ったのだ。
「1946年にベチューン医学院に入院したとき、稗田医師の治療を受けた。わたしも子供もその恩を忘れることができません」
このような知られざる日本人の活躍が満載され、ぐいぐいと勇気が湧いてくる本になっている。
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