「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」
平成23年(2011)4月26日(火曜日)通巻第3316号を転載
「グアンタナモ・ファイル」がウィキリークスによって暴露された
想像を絶する混乱と乱雑と杜撰。米軍の恥部も明るみに出た
ウィキリークスが暴露した「グアンタナモ・ファイル」は4月25日に世界中のマスコミが大きく伝えた。相変わらず軽視したのは日本のマスコミだが、これはいつものことで世界情勢の裏側を知りたいという意欲に欠けるからだろう。
さて「グアンタナモファイル」とは何か?
グアンタナモはキューバにある米軍の刑務所、ここにアフガニスタン、パキスタン国境で拘束された「アルカィーダ」と『タリバン』の容疑者およそ1000名が取り調べを受けた。
『ペンタゴン・ペーパー』に匹敵するほど深刻な機密情報が詰まっているかといえば、そうでもない。
ただしグアンタナモ基地に於ける、米軍の想像した以上の杜撰な管理、混乱の極みに陥っていた取り調べ、その無軌道と右往左往ぶりは、米軍のアキレス腱をあぶり出したと言える。
第一に700の個人ファイルから浮かび上がったのは、150名がまったく無実の罪で拘束されていたこと。
なかにはアルジャジーラの通信技術者、設備担当専門家のサミ・アル・ハジがアルカィーダの通信技師と疑われて六年間もグアンタナモ刑務所に留め置かれ取り調べを受けていた事実(サミは現在、アルジャジーラに職場復帰している)。かれはチェチェン、コソボなどに従軍記者なみにアルジャジーラの通信設備を運んで設置したため、その渡航歴から疑われたのだ。
▼タリバン幹部の偽装を見抜けず
第二に完全にクロと判明したのは130名、不明が172名(まだ拘束中)、あとは604名が釈放され、世界各地に届けられたこと。
しかし、このなかにはアルバニアに亡命したウィグル人五名、カンボジアに逃れて亡命が認められそうになったおり中国政府の圧力にまけて、カンボジアからふたたび中国へ送られたウィグル人が数名、パプア・ニューギニアに新天地を求めたアフガニスタン人なども含まれた。
第三に、最悪の失敗例が含まれていた。
ムハメッド・アラム・シャハは十代のときに片足を失った。2001年にタリバン容疑者として拘束され、ずっと「自分は運転手に過ぎず、タリバンにつかまった弟を助けようとして運転したところだった」と言い張った。
グアンタナモ基地で治療に当たった米軍医師は、「片足の喪失は彼の供述に一致し、米軍あるいは米軍の同盟軍への危害をくわえる可能性はない」と判断され釈放、アフガニスタンへ2004年に送還された。
アラム・シャハは、帰国後ただちにタリバンへ復帰し、タリバン名の「アブドラ・メスド」を名乗って反米闘争に参加を呼びかけるヴィデオに登場した。彼はタリバンの幹部だった。
聖戦を獅子吼し、その後アフガニスタン各地で内務相談殺害テロ(31名が犠牲)や中国人エンジニア二名の誘拐に加わり、07年に自爆テロで戦死した。かれは殉教者として奉られた。
このほか数十名のタリバン戦士のプロファイルをウィキリークスは暴露しており、NYタイムズが大々的に報道している(4月26日付け)。日本のマスコミは、まるで興味がなく今日もフクシマ原発の誇大過激報道を30キロ離れた地点から流し続けている。
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宮崎正弘の国際ニュース・早読み(グアンタナモファイル、その2)
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