真悟の時事通信 (平成24年6月20日号) を転載

沖縄戦に生きた人々を忘れるな

今、六月二十日。
この梅雨の時、沖縄戦のことを偲ぶ日本人は何人いるのだろうか。

戦争は悲惨だ、日本軍は悪かった、だから、沖縄県民はその犠牲になった、という人は多い。
ところが、沖縄戦における我が同胞が、如何に生き如何に死んだか、如何に闘ったかを見つめ、その様を調べて心に刻もうとする人は少ない。
しかし、沖縄戦の実相を知ろうとせず、六十九年前の今、如何なる戦いが沖縄で行われていたかに関心を示さずに封印して知ろうともせず、ただ「沖縄県民は犠牲者」だと繰り返すことは、県民を、「反戦、反基地、反自衛隊」という政治運動推進の道具として使うことであり、決して戦没沖縄県民の望むところではないと私は確信する。むしろ、この態度は、県民の生き様に興味を示さず、ただ彼等を個性のない抽象的な「犠牲者」という鋳型に押し込めることであり、亡くなった沖縄県民に対する冒涜である。

ナチスドイツがユダヤ人絶滅のために設置したアウシュビッツユダヤ人絶滅収容所に入れられたユダヤ人である精神科医のビィクトール・フランクルは、生き残ってから、アウシュビッツ収容所という極限状態の中で「生きた」人々を描いた記録を出版した(フランクル著「夜と霧」)。
彼は、アウシュビッツの「犠牲者」を報告したのではなく、その「極限の中で生きた人々」を報告した。
彼は、収容所の中で、衰弱してベッドに横たわる死に行く女性に出会う。
彼女は、窓の外に見える庭に一本だけ立っている木と話しをしていた。「貴方(木)と同じように、私は生きている、私は生きている」と。フランクルは、医者らしく、彼女の精神状態が異常をきたしていないかと思い確認したが、彼女は正常であった。そして、死期が迫っても木を見て最後まで命を見つめていた。
つまりフランクルは、「夜と霧」のなかで、この極限のアウシュビッツ収容所の中にいる「英雄」、「気高い人々」、「人間の高貴さと誇りを立証した人々」を報告した。
そして読者は、それらの人々から「言語を絶する感動」を与えられたのだ。
彼等は、単なる個性のない抽象的な「犠牲者」とされるよりも、その極限の中で自分が「如何に生きて死んでいったか」を知られることを望む。このことによって彼等は我々の心の中に生きるからである。

そこで再び言う。
六十九年前の沖縄戦の中で、亡くなった人々が「如何に生きたか」を知ろうとせず、単なる「犠牲者」として片付けることは、彼等を冒涜することだ。
そして、今、多くの人は、冒涜と同時に彼等を己の主張を裏付けるために都合良く政治利用しているにすぎない。
特に、今の民主党と内閣の面々、そして、左翼運動家。

よって、沖縄戦の実相を見つめ直し、彼等が「如何に生きた人々であるか」、「如何に人間の気高さと勇気を実証した人々」であるかを知り、日本の価値と現在の沖縄の地政学的重要性を明確に意識することが、戦後からの脱却の第一歩であり、沖縄戦における十八万八千余の尊い英霊の望まれるところだ。
何故なら、これによって、彼等が願った、我が国と国民の将来の安泰が確保されるからである。

昭和二十年、激戦の硫黄島が陥落して、いよいよ敵は沖縄に押し寄せた。その数、陸海併せて五十四万八千人、迎え撃つ日本軍は第三十二軍と海軍沖縄根拠地隊合計十一万六千四百人。
アメリカ軍は、三月二十四日から艦砲射撃と空襲を開始し、十六万八千名の陸兵はサイモン・バックナー中将に率いられて、四月一日に宜野湾に上陸を開始し、何の抵抗も受けずに上陸を完了した。

それから、日本軍は、六月二十三日、第三十二軍の司令官牛島満中将と参謀長長勇中将の摩文仁の洞窟での自決によって組織的戦闘を終え(二十五日大本営発表)、以後、玉音放送の遙か後の八月二十九日の歩兵第三十二聯隊の連隊長北郷大佐の投降まで遊撃戦(ゲリラ戦)を続ける。

その戦闘によって、日本側に軍人九万四千百三十六名、民間人に九万四千人合計十八万八千余の戦死者、アメリカ側に八万四千五百三十二名(内戦死一万二千五百二十名)の戦死傷者を出した。
その間、本土から二三九三機の特攻機が沖縄周辺海域のアメリカ軍艦船に突入して四〇四隻を撃沈破し、四月七日には、戦艦大和等九隻が沖縄突入を図った。

沖縄戦の詳細については、目下研究中であり、本稿で詳しく述べることはできないが、上陸した十六万八千のアメリカ軍は圧倒的な火力と機動力を持ち海と空から強力な援護を受けながら、上陸地点から南端の摩文仁まで三十キロを進むのに二ヶ月と二十三日を要している。
そのアメリカ軍の苦戦は、東京の大本営が現地の実態に即しない作戦を強要してくるまでの第三十二軍独自の戦いによってもたらされた。特に上陸地点近くの嘉数高地における少人数で多数のアメリカ軍を長期間にわたって釘付けにした戦いは、第三十二軍の戦術的勝利といえる。

また、六月十八日、アメリカ上陸軍の司令官であるサイモン・バックナー中将が、摩文仁近くの前線を視察中、狙いを定めた我が軍の野戦重砲兵第一聯隊第二大隊の九十六式十五糎榴弾砲の放った砲弾によって戦死した。
アメリカ陸軍史上、野戦で軍司令官中将が戦死したのは、このサイモン・バックナー中将の例しかない。
この敵の軍司令官の戦死の五日後に、近くの摩文仁の洞窟で、我が軍の軍司令官牛島中将が自決している。
日米両軍は狭い地域八で相次いで軍司令官を失っていた。
この野戦重砲兵第一聯隊第二大隊の九十六式十五糎榴弾砲は、傷だらけになって、靖国神社遊就館一階正面右側に展示されている。

アメリカ軍は、沖縄戦における日本軍の戦いを総括として、「歩兵戦闘の極み」と表明している。
また、アメリカ軍の従軍記者は、沖縄戦を、「これほど狭い地域で、これほど短期間に、これほど多くのアメリカ軍艦が沈み、これほど多くのアメリカ青年の血が流れた戦闘はかつてなかった」と書いた。

さて、今日、六月二十日であるが、軍の南部移動に随伴せずに外科壕に留まった「ひめゆり学徒隊」百三十六人が自決した翌日である。
沖縄戦においては、県立女学校や師範学校女子部の生徒が、学徒隊を結成して従軍看護婦となり負傷した兵士や県民の看護にあたった。
六月に入り、いよいよ追い詰められてきて軍が南部に移動せざるを得なくなったとき、彼女たちは動けなくなった負傷兵の側を離れずその場に留まり、アメリカ軍の攻撃を受け戦死しまた自決していった。
それは、六ヶ月前の昭和十九年十一月七日、ユダヤの若い女性兵士であったハンナ・セネッシュ(二十三歳)のハンガリーでの戦死と同様の、「屈辱の生よりも栄光の死を選んだ」乙女の姿だった。

この様子を、大田實海軍中将は、その自決直前の決別電報で次の如く伝えてきた。
「看護婦に至りては軍移動に際し衛生兵既に出発し見寄無き重傷者を助けて敢て真面目にして一時の感情に馳せられたるものとは思われず」

六十九年前の六月、沖縄では多くの若き従軍看護婦の戦死と自決が相次ぐ。
ここに各学徒隊の名前と動員数を記してご冥福を祈りたい
ひめゆり学徒隊  二百二十二名 県立第一高等女学校と師範学校女子部
白梅学徒隊  五十五名 県立第二高等女学校
名護蘭学徒隊  十名 県立第三高等女学校
瑞泉学徒隊  六十一名 県立首里高等学校
積徳学徒隊  六十五名 私立積徳高等女学校
悌梧学徒隊  十七名 私立昭和高等女学校 

 
リンク
西村真悟ホームページ
真悟の時事通信
西村塾