真悟の時事通信 (平成23年12月19日号) を転載
 

歴史の連続性、戦争を今のことのように感じる心

戦前戦後は連続している。
ということは、現在は、悠久の太古から連続している。
これが日本なんだ。

しかるに、戦後という時代は、憲法において戦前と戦後を断絶したものと規定した。そして、戦前は憲法前文第二段落文にいう「人類普遍の原理」に反する国家であったとして、戦後を「人類普遍の原理」に基づくよい国になったと規定する。
しかしこれは全く嘘だ。

昭和二十一年から二十二年にかけて、この憲法を起案して公布そして施行手続きを強行した日本を占領していた連合軍総司令部GHQは、同時期に、戦前の我が国を裁く形式を借りた復讐劇である東京国際軍事裁判を進行させていたのである。
従って、戦前と戦後を断絶させたGHQの起案した憲法前文は、同時期の東京国際軍事裁判における検察側の日本を糾弾する起訴状を補強する文章であると位置づけられる。
つまり、東京国際軍事裁判で糾弾される側が、同時期に憲法を作って、東京裁判の検察側のお説の通り、戦前の日本は悪い国でしたと自ら認めておれば、裁判の復讐劇という本質をを隠して良心の呵責無く日本を裁いたふりをして七名を絞首刑にできる。
このGHQ、主にアメリカの思惑が反映したものが昭和二十二年に施行された「日本国憲法」の内容である。

さて、本日のことを報告しようとして、前置きが長くなった。
本日は、大阪において「がんばれ日本」によるTPP阻止御堂筋デモの日であった。
我々は、本日午後一時、大阪の新町北公園で集まり、集会の後、午後一時三十分から御堂筋を難波まで南下するデモを行った。
デモが目的地に到着した後の午後三時半から難波駅北の広場で集会を開いた。

その時挨拶に立った私は、歴史の連続性を前提にして語った。
「我々が今日の日本人に生まれ日の丸を掲げることができるのは、百七年前の現在、日露戦争において、死にもの狂いで旅順を攻めている将兵がいるからである」と。
その結果、我々は日本人として生まれることができた。

思えば、乃木希典率いる第三軍は、明治三十七年十二月五日、旅順要塞の二百三高地を占領し、そこから旅順港を見下ろす観測所を設け、湾内の旅順艦隊を撃滅する。
しかしその時、旅順艦隊の各主砲は、既に船から陸に揚げられ要塞防御に充てられていた。従って、第三軍は、戦艦や戦闘艦ではなく、海に浮かぶドラム缶を砲撃したようなものであった。
奉天にたむろする三十万を超えるロシア軍に向かう人数の少ない日本軍の背後の旅順に無傷な敵がおれば、日本の敗戦は必至である。
従って、二百三高地が落ちればそれでよいのではなく、我が国存立のために、日本軍はどうしても旅順そのものを陥落せしめなければならなかった。
そして、その為の必死の戦いが今続いている。
難波の街頭でこのことを話した。

しかるに、集会後、参加の仲間と通天閣近くの串カツ屋で一杯やって帰宅すると、本日は夜の九時までNHKで、「坂の上の雲」が放映された日であることを知った(既に放映は終わっていた)。
そして、新聞のプログラム欄に観る放映内容は「敵艦見ゆ、バルチック艦隊出現・・・」とある。
ということは、NHKは、前回の「二百三高地攻防戦」(明治三十七年十二月五日)から直ちに「日本海海戦」(明治三十八年五月二十七日)に物語を飛ばしており、二百三高地陥落後の真の旅順要塞攻防戦の意義を無視し捨象していることになる。

帰宅してこれを知った私は、少々飲んでいるが、真の旅順の無名の英雄を無視されたような寂しさと無念を感じ、拙稿をもって、旅順陥落、即ち日露戦争勝利は、NHKが無視した二百三高地陥落以後にありとお伝えしたく本稿を書き込む次第。

まさに明治三十七年十二月の本日十八日、第三軍は、旅順東鶏冠山占領、二十日から三十一日までの間に、二龍山および松樹山占領、一月一日午後三時三十分望台占領。
以上いずれも、二百三高地から東側の当初からの第三軍の攻撃地点。その中の望台こそ、旅順市内を見下ろす高台である。つまり、旅順要塞の心臓に剣の届く要衝であった。
そして、第三軍望台占領の一時間後の同日午後四時三十分、第三軍前哨に旅順要塞司令官ステッセル中将の軍使が訪れ降伏を申し入れる。

旅順の要塞は、百七年前の十一月二十六日の白襷隊の突入、十二月五日の二百三高地占領、十八日の東鶏冠山占領、それから三十一日までの二龍山と松樹山占領そして年が変わった一月一日の望台占領で陥落する。
まさに、精根を尽くした死に物狂いの攻撃の連続だった。
本日、十八日、難波の街頭で、百七年前の旅順において、現在の日本の運命をかけた決死の戦いが今まさに続けられていたと話せてよかった。
 
 
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西村真悟の時事通信