水俣問題が表面化する6年前から既に水銀被害は認識されていた。戦後復興の旗印であった企業「チッソ」を守るために、情報を隠蔽していた当時の社会情勢がうかがえる。

くまにちコム 2013年01月16日 を転載

水俣病加害責任、早くから認識 労組がフィルム

水俣病の原因企業チッソを内部から告発した「新日本窒素労働組合」が、同社の責任追及を始めた1968年の6年前、既に組合員らが社の加害責任を認識していたことを示す資料が、幻灯機のフィルムから見つかった。

フィルムは1962年、水俣工場の組合員が撮影、上部団体の合化労連が制作した「水俣のたたかい」。「安賃闘争」と呼ばれた大規模争議を全国に伝えるのが目的だった。

だが、全31コマのうち1コマでは、横たわる患者の姿が撮影されていた。また、弁士が読む台本には「口重い漁民のひと言は新日窒の会社の残酷性を直截[ちょくせつ]に表しています」「病院に入ったままの少女や子どもたちを思うと胸の底から憤りがこみ上げてきます」などと書かれていた。

労組は2005年に解散し、フィルムなどの資料は、熊本学園大水俣学研究センター(熊本市)に寄贈されていた。昨年秋、同センターがフィルムを整理し、患者の写真と台本の存在に気付いた。

労組が組合大会で「恥宣言」を決議し、患者を支援して会社の責任追及を始めたのは68年。同センター長の花田昌宣教授は「恥宣言の6年前に水俣病を問題視する人が存在したことを示す意義深い資料」と指摘する。

労組の元委員長で、長く患者支援を続ける山下善寛さん(72)=水俣市=は「先輩たちの問題意識が、後の活動につながっていったと思うと誇らしい」と話した。(石貫謹也)

※リンク元には1962年に撮影された水俣病患者の姿が写されている