捧哀悼
三笠宮寛仁親王殿下が、六日、薨去されました。
謹んで深く哀悼の誠を捧げたてまつります。臣眞悟
私如き者が、いささか不敬ではありますが、ここに殿下との思い出を書かせていただきます。
気さくに、国民に話しかけられる殿下であられた。
殿下と二度、お話しさせていただくことができた。
十年ほど前の園遊会の折、寛仁親王殿下が、佇立して礼をしている私の前を通られた。その時、殿下はこう言われた。
「お、西村さんじゃない、あなた何故、民主党におるの」
驚いて顔を少し上げると、殿下が、ニコニコされながら私の方に向いておられる。
「は、はい、あのー、」
しばらくの間があって、
「ははは、西村さんの書いているものは、みんな読んでるよ」
「は、・・・ありがとうございます」
(この時の政治状況)
細川内閣が、自民・社会両党の連立により崩壊してから、細川内閣の与党であった政党が合体して新進党ができた。
小沢一郎氏がその新進党を解党したので、私は、真の保守党を目指し、自由党結党に参加した。
その自由党は少数政党であったが、私は国防部会を主催し、集団的自衛権行使は当然との前提で議論をすすめることができたし、自自連立で与党になってからは防衛政務次官に就任し、当時の日本ではタブーに触れるとびっくりされたが、世界では「なるほどなー」と思われる「核武装議論提起発言」を行った(平成十一年)。
その後、小沢一郎氏は、自自連立を解消し、集団的自衛権を否定し、突然、民主党との合流を打ち出した。
これは、「志を持つ者」にとっては裏切りであった。
私は、激しい葛藤に襲われたが、御殿場の富士の裾野で一夜を明かし、民主党を保守化すればいいのだと思い決して民主党と合流した(平成十四年)。
殿下の私へのご発言は、自由党の民主党への合流後の園遊会でのことであった。
その後、一度、東京駅の新幹線のプラットホームで殿下と出くわした。殿下は、その時、大勢の同行の人に囲まれて車両の扉の前におられた。私は、深く会釈した。お話しする時間はなかった。その時、殿下のおられる回りだけが、現在ではない「明治の雰囲気」を湛えているように思えた。
そして、昨年平成二十三年の冬、東日本大震災の前、人を介して、殿下が西村に会うと言われている旨伝えられた。
驚き、赤坂御用地のご自宅に伺った。
その時の殿下は、もはや御肉声ではなく、喉に筒を当てられて、それを振動させて声を出されて語られた。
殿下は、健常者には想像できないこの不自由さにへこたれる風は微塵もなく、喉に当てた筒を振るわして語り続けられた。
その内容は、太古からの歴史を背景にした日本と御皇室に対する熱い思いから発せられていた。
お話の最後の頃に、世間や巷の話しになった。
その時、「義理の兄貴がねー、」と言われ、麻生元総理から聞かれたおもしろい話をされたのが、私的な絆を大切にされ御家族に対する愛情がにじみ出て印象に残っている。
喉に当てられた筒を振動させて長時間会話をするしんどさをお察しして、私は、新刊の「中国の恫喝に屈しない国」(WAC)をテーブルにお置きし退出させていただくことになった。
お疲れのご様子でありながら、殿下は少しもそれを出さず、辞退させていただいているのに、玄関までこられた。
お礼を申し上げ、ご自宅を出て私が乗った車が動き出すとき、殿下は、なお歩を進められて、ご自宅の玄関の扉の前に闘病の身を以てすっくと立たれていた。深く恐縮して殿下を拝した。
すると、何故かそこが逆光で、殿下の姿が光の中に浮かんでいた。
私は、威厳ある高貴な影がそこに立たれていることを感じた。
それから東日本の巨大地震があり、殿下の御動静も伝えられていたが、お体のことが気になりながらも、うち過ぎ、
昨日六日の薨去の報に接したのだった。
三笠宮寛仁親王殿下の、
祖国と御皇室への思いを親しくお聞きした臣眞悟、
祖国と御皇室の為に、与えられ残された命であります。
全力を尽くします。
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