ブログ  ねずさんの ひとりごと より
「アイデンティティ」 を転載

前号 からの続き

そしてもうひとつ大事なことは、年貢は「土地にかかる税」であって、人にかかる税ではない、ということです。

どういうことかというと、年貢を払うのは、自分の土地を持って農業を営んでいる自作農以上の農民であり、圧倒的多数いた小作農ではない。地主から土地を借りて耕作している小作人は、地主に小作料を納めるのであって、彼らに年貢を治める義務はなかった。

小作人というのは、今でいったら歩合制の従業員です。
自作農は、小作人に土地を貸している地主、つまり経営者です。
そして実際には、江戸時代の農民一揆や打ちこわしは、領主や代官と農民の間の紛争ではなく、地主と小作人との間に持ち上がっていた場合の方が多いのです。要するに、いまで言ったら、企業内のストライキのようなものです。

さらに、水呑百姓というのは、実質的には、地主に雇われて耕作をする季節労働者です。これを教科書などでは、最下層の貧民のように扱っているけれど、ところがどっこい、水呑百姓には、相当裕福な者もいた。

実は、水呑百姓というのは、今でいったら、パートさんです。別に本業を持って、アルバイトとして農作業を手伝っていた人たちです。

要するに、ただ、自分の土地を持っていないというだけで、江戸期の制度では水呑百姓に分類されているけれど、実際には、商工業者や武家の次男坊や三男坊が、農家の手伝いをし、給金を稼いでいた。当然、水呑百姓も、年貢の納税義務は持っていません。

さらにいえば、自作農というのは、土地持ち農民であり、生産手段と労働力を自前で持っている人々です。
マルクス主義でいうなら、ヨーロッパでいう「ブルジョワジー」、つまり地主支配層に分類されるべき存在であり、人口的に圧倒的に多かった小作人や水呑百姓からみれば、かれらこそが「領主さま」そのものだったといえます。

「農民は生かさず殺さず」とか、「農民とゴマの油は絞れば絞るほど良く取れる」などという言葉だけが独り歩きし、江戸期の農民が恒常的に極度に困窮していたようなイメージ、印象操作がされていますが、要するにそれらは反日左翼のプロパガンタにすぎません。

六公四民、五公五民、四公六民などなど、いかにも厳しい税率だったようにいわれる江戸時代ですが、最近の研究では、どうやら、当時の実際の税率はおおむね10%程度であったと言われています。

そうなると、国富の九割を農民が、残りの一割を、武家が受取り、商人は農業生産物の流通で儲け、職人はそれぞれの階層の利益の一部から所得を得ていたことになり、鎖国経済の日本の姿が、自然と納得できるものとなります。

さらにいうと、新規に開発された新田などでは、課税されない場所も多かった。おかげで、農村にも和算(日本の数学)をはじめ読み書きソロバンといった基礎教育が普及し、全国的に極貧どころか相当に文化的な生活を送る農民が多かったというのが史実です。

中には、農業の専門書も書かれているし、自分で農業を行うかたわらで、各地の農業指導を行う者もいた。農業の専門書を買うにしても、勉強するにしても、生活にある程度の余裕がないと、こうした事はできません。

これから、夏祭り、お盆のお祭りのシーズンになりますが、祭りといえば、祭り囃子の笛、太鼓、屋台に神輿に、縁日の露天が立ち並びます。

祭り囃子の笛太鼓は、誰が演奏するのでしょう。
農民です。
露天の夜店で、買い物をするのは誰でしょう。
農民たちです。
なにせ江戸時代、人口の9割は農民たちです。

要するに、彼らには神輿を造り、保管し、祭り囃子を練習する時間もあれば、夜店で買い物をする生活のゆとりもあった、ということです。

何を言いたいのかというと、階級闘争史観では、日本社会の実像を浮き彫りにすることはできない、ということです。社会の構造、社会についての考え方がまるで違うのです。

戦時中、日本人は悪いことをした、とデタラメを教える馬鹿な教師が後を絶ちません。中には、ありもしないねつ造に騙され、わざわざ韓国にまで生徒たちを連れて行き、生徒に土下座までさせる馬鹿教師、馬鹿学校まで出る始末です。とんでもない話です。

民族としての誇りと自覚を持ち、僅かな装備、僅かな兵力で、常に味方の10倍もの敵と戦い続けてくださった私達の父祖を貶め、はずかしめる。まさに、学校ぐるみ、社会ぐるみで、祖先にたいする「いじめ」を、教師たちが率先してやっているのです。これでは、おなじことを子供達がしたからといって、子供達を責めることなどできはしません。
実にとんでもない話です。

民族のアイデンティティを知るとは、民族としての歴史を知る、日本人とは何者なのかを知ることです。誇りある伝統と文化を知った若者、つまり自らのアイデンティティを確立した子供達は、自らをその誇れる大いなる存在に同化させようとします。
その結果、若者たちは健全な精神を獲得し、「公」を大切にし、社会や国家に対して健康な忠義心を持つようになるのです。

昨今、香港で、中共の歴史教育に対して、思想教育を排除せよ、とするデモが起きていると報じられました。
なるほど、一理ある。

ただ、私は思うに、歴史教育というものは、民族のアイデンティティを育成するという目的を持ったものであると思うのです。その意味では、中共の歴史教育は、ある意味、いいところをついている。
ただ、内容がねつ造ばかりという点が問題なのであって、歴史教育は思想教育、すなわちアイデンティティ教育であるということは、実は、たいへん要点をついた教育体制であると思っています。
繰り返しますが、もちろんその内容は別です。ウソを教えてはイケナイ。

よく、歴史は過去の事実を教えるものであるという人がいるけれど、これは偽装です。

「昨日、AさんがBさんに会いました。」
これは事実です。
けれど、これだけでは、無味乾燥であり、何も得るものがありません。

「昨日Aさんは、日頃尊敬するBさんに会いました」
こうなると、歴史に物語性が生まれます。
そして「日頃尊敬している」って、なぜ?どうして?という疑問が生まれます。

その疑問から、なぜAさんがBさんを尊敬するに至ったか、という物語が生まれます。

言い換えれば、歴史を学ぶ、歴史を知るということは、歴史の物語を学ぶ、歴史の物語を知る、ということなのではないかと思います。

人は、物語に生きています。
恋愛も、それぞれの恋愛には、心のふるえる感動の物語があります。

その物語を学び、今に活かし、未来を築く礎にする。
それが歴史を学ぶということではないかと思います。

日本民族は、世界最古のご皇室を抱く民族です。
ということは、日本人が日本の歴史を学ぶということは、その世界最古のご皇室を中心とした日本人の営みの物語を学ぶ、ということです。

私は、そういう歴史教育の復活を望んでいます。

 
リンク
日本の心をつたえる会 日心会
ねずさんの ひとりごと
ねずきちのひとりごとメールマガジン
日心会への入会フォーム (無料です。コミュニティでは、会員同士の意見交換や、イベントの告知、様々な情報のやり取りが可能になります。)