真悟の時事通信 平成24年 5月 5日(土) を転載

台湾の戒厳令

この度の台湾東海岸の山の人々を巡る旅で、強く印象に残ったのは、台湾における一九四七年二月二十八日から一九八七年まで続く四十年間に及ばんとする戒厳の布告という事実である。
これは、世界政治史上最長の戒厳令である。

戒厳とは、行政と司法の一部または全部を軍隊の権力下に移行させて統治することである。つまり、軍隊に独裁権力を与える非常時の統治形態である。

我が国においては、日露講和に反対する日比谷焼き討ち事件等の暴動鎮圧の為の明治三十八年九月六日から同年十一月二十九日の戒厳令、大正十二年九月二日から同年十一月十五日におよぶ関東大震災に際する戒厳令そして昭和十一年二月二十七日から同年七月十六日の二・二六事件に際する戒厳令がある。これらは共に期間は限定され、地域も東京に限定されている。

しかし、台湾の戒厳令は期間は一九四七年から一九八七年に及び地域も台湾全土であった。この間、台湾の行政と司法の全ては、中国国民党の軍隊の権力下におかれたのである。その戒厳令の間、台湾の最高権力者は中華民国総統の蒋介石(一九七五年まで)とその子の蒋経国(一九八八年まで)であった。

台湾の人々の頭上に覆い被さっていたこの戒厳令が解除され、台湾に表現の自由が浸透してゆくのは、実に一九八八年から始まる李登輝総統の時代になって、国民による総統選挙が行われるようになってからだ。
私が初めて台北を訪れたのは、平成六年(一九九五年)だと思う。その時も、台北に「台湾」という国名はなく「中華民国」一色だった。台湾人が「台湾」という国名を使い始め自分たちのことを台湾人と呼び外省人のことを「チャンコロ」と呼び始めるのは、陳水篇総統時代からではなかったか。

陳水篇の任期終了にともなう四年前の総統選挙の時、その様子を台北に見に行った。
京都大学出身の民進党の謝長廷と国民党の馬英九が総統を争った。
朝、台北市内で店の前にすててこ姿で座っている電気屋の亭主に、馬英九のポスターを指さして、「彼は人気があるか」と訊くと、亭主は即座に、「ダメ、ダメ、あいつは、チャンコロ、チャンコロ」と言った。これが、チャンコロと言う呼び名を聞いた最初だった。台湾は、今、長い戒厳令の時代からやっと目覚め始めた時期だと言える。

とはいえ、台湾には国民党による異常に長い戒厳令の期間があったことは知っていても、この時期が如何なる時期であり、如何に台湾の人々を虐げ苦しめたのか、それを実感したのは、この度、高砂義勇軍元兵士の涙をみたときだった。

東海岸の南澳という小さな街の山手に南澳神社の表示があった。神社は何処かと聞くと、道行く人々はすぐさま「あそこ」と指さしてくれた。そこに行くと、参道と階段は見事に昔のままの姿であった。しかし、鳥居と社殿は無かった。
また、台湾の東の大都市である台東の郊外のとある道の端に鳥居が見えた。鳥居をくぐり参道に従って歩くと、社殿が建てられていたであろう石で囲われた台座があった。しかし、社殿はなかった。

門脇朝秀先生が、炎天下、杖を置き石段に座って語られた。
「社殿が撤去されて無くなっても、鳥居と参道が残っていることがどういうことだか分かりますか。戒厳令下で、国民党軍に神社の社殿は潰されても致し方ないとして、せめて鳥居や参道は残してくださいと、付近の村の人々が命をかけて嘆願した結果なのですよ。
台湾の戒厳令下では、裁判にもかけず理由も言わず台湾人を殺すことができたのです。強権を以て日本時代を抹殺しようとする戒厳令の目的下においては、鳥居や参道を残そうとすることは、命がけだったのです。」

ましてをや、従軍した人々は、大日本帝国陸海軍兵士として「祖国日本」の為に闘ったことを公言することはできなかった。彼等は、同じ村から出征した多くの戦友が戦死したことをすまないと思いながら、ひっそりと戦地から生還し、日本から見捨てられ沈黙して生きてきたのだった。

この度の旅の最後の日は、南部の高雄で過ごした。
いつもの通り、高雄中学出身の人々が集まってくれて、「只要認台湾国不再拒絶中国人」と大書された看板を玄関の屋根に掲げている食堂に入って会食した。そのメンバーの全ての人は、戒厳令下の「白色テロ」で親兄弟姉妹の肉親を一人か複数殺されていた。
会食後、竹田に帰る劉さんを送って高尾駅まで歩いた。高尾駅前のタクシーが群れる広場に来たとき、彼は、「ここで、多くの高尾中学の学生が銃殺されるのを見た」と言った。

翌日、運転してくれていた李さんが言った。
「昔の高尾駅は、着いた列車から降りた乗客は、地下道を通って表通りに出た。国民党軍は、全乗客が地下道に入ったのを見届け、入り口と出口を封鎖して地下道の中の人を全員射殺した。私は、その後の列車で高尾駅に着き地下道の入り口を見たが、その中は死体が折り重なり血だまりができていた。」

一九四七年二月二十八日のいわゆる2・28事件は、台北の街角でものを売っていた女性を国民党の警官がピストルで殴ったことを発端として、台湾人(本省人)の進駐してきた国民党に対する抗議行動として始まった。
この抗議行動に対して、国民党は単に抗議行動を封殺するに留まらず、戒厳を布告して大陸から援軍を送り込み、日本時代の知識層を徹底的に弾圧し抹殺し始めた。その戒厳が三十八年間に及んだのだ。

この間、台湾人は既に書いたように、国民党軍に裁判もなく理由無く殺されても何の文句も言えない状態におかれた。
現在、台湾では、2・28事件とそれに続く「白色テロ」で、二万八千人が殺され犠牲になったといわれている。しかし、総数は、もっと多いのではないかというのが私の実感である。

この三十八年間の戒厳令と白色テロの中を、ひっそりと生きてきた台湾の山の人々は、百歳になって、はるばる訪ねてきた門脇朝秀さんを見て抱きつき泣いたのだった。その中の一人、岡田耕治(陳祐儀)さんは、門脇さんと手を取り合って泣いてから、直立して「海ゆかば」を歌い、以後一切話さなかった。

その岡田耕治さんから届いた手紙を次にご紹介したい。
「こちらは豪北モロタイ派遣軍第二遊撃隊川島部隊陸軍伍長岡田耕治です。
四月二十日、みなさん訪台の節、門脇先生を囲んで、実は耳が遠いので、みなさん貴重な物語もききとれない無口のままに失礼しました。ただみなさん台湾岡田耕治への思い暖かい心に触れて、お見舞い、おつき合ひに対し、感謝と感激のお礼申し上げます。
では、この辺でみなさんごきげんよろしく。
今でも自分は、日本人として、戦った事を誇りと思っています。」

なお最後に、岡田さんのように日本軍兵士として戦った全ての台湾の人々はもちろん、戦後の2・28事件と長期の「白色テロ」の中で苦しめられ、また殺された多くの台湾の人々は、全て「日本人」であったということを我々は決して忘れてはならない。台湾では、日本人と日本政府が知らないうちに、多くの日本人が殺されていたのだ。

昭和天皇は、このことを知っておられたと思う。
今からでも遅くはない。日本政府は、台湾におけるこの多くの同胞の死に深く弔意を表し、慰霊碑を建立して民族の記憶として末永く残すべきである。

 
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